一年ぐらい前だったかもうすこし前だったかに気づいたのだけれど、アラン・レネの『二十四時間の情事 Hiroshima mon amour (ヒロシマ・モナムール)』に、女が遠方から自転車コギコギしてナチスの将校に会いにいくシーンがあってそこがとってもいい。
フェティッシュ的享楽の男は通常
自転車で股間がムレムレしてるだろうな
と楽しむんじゃないか 吉岡実的にさ
自転車の上の猫 吉岡実
一台の自転車
その長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
禁欲的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから掃除人が来る
ボクは完全にこれだな
で、すぐさまトリュフォーを思い起こす
他方、被愛妄想的享楽の古典的女は次のシーンをずっと好むのだろう
ま、これも悪くはないけどさ
「大股をひらく猫」が飛び込んでくるわけだから
女と猫は、呼ぶ時にはやって来ず、
呼ばない時にやって来る(メリメ『カルメン』1845年)
めったにないけど呼んだときやってくる猫は最高さ
かつて「ジンプリチシムス Simplicissimus」(ウィーンの風刺新聞)に載った、女についての皮肉な見解がある。一方の男が、女性の欠点と厄介な性質について不平をこぼす。すると相手はこう答える、『そうは言っても、女はその種のものとしては最高さ Die Frau ist aber doch das Beste, was wir in der Art haben』。(フロイト 『素人分析の問題』1927年 後書) |
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いやいやシツレイ! ボクが悪いんじゃなくてメリメとフロイトラカンが悪いだけさ、チェーホフでも引用してお詫びしとかないとな
女のことになるとまず極まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――「低級な人種ですよ!」(……) さんざん苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草物腰に至るまで、実に心得たものであった。(チェーホフ『犬を連れた奥さん』1899年) |
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えーっと、要するにここで言いたいのは
同じ映画をみても男と女は別のところを見ているってことだ
映画だけでなくほとんどあらゆることでそうだ。
一神教的神の信仰だって、フェティシストとしての信仰とエロトマニアニストとしての信仰さえ想定しうる。女の信仰者の多くは神に愛される(被愛)を無上の喜びとしているのは実際によく見受けられる。男のほうにはあまり関心がないが、本音のところは穴の穴埋め(仮象としてのフェティッシュ)=防衛として呪物崇拝してるんじゃないかね
なんたって穴は怖いんだから。
享楽自体、穴をを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである [la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite] そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない [le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie]。 |
フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた[la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.]。.〔・・・〕 神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望」と「補填としての女性の享楽」に至る。[Freud, établissant la généalogie de Dieu, s’arrêtait au Nom-du- Père. La généalogie lacanienne fore la métaphore paternelle jusqu’au désir de la mère et la jouissance supplémentaire de la femme](J.-A. Miller, Religion, Psychoanalysis、2003) |
〈大文字の母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (Colette Soler « Humanisation ? »2014) |
男性の信者を観察してみたら、オモシロイ結果がでるかもな・・・どうしてあの組織の連中はペドフィリアに向かうのか、とかさ・・・
話を戻せば、ごく日常的に観察される男女の相違としてはたとえば次のようなことがある。
男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。…同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader(1996)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE 、1998年) |
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以上は前回のヴァリエーションとして言っているわけだが
こういったことはわかっておいたほうがいいよ
あとで互いに失望しないためにもね
ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ 『笑いと忘却の書』) |
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