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2021年1月4日月曜日

チョロチョロ同性愛作家

 男性の同性愛者といってもいろんなタイプがいる。私のほんの僅かな知に限っても、プルーストやロラン・バルトーーそれにジャン・ジュネも含めようーー、しっかりと母への愛を示した真の同性愛作家がある。


同性愛において見られる数多くの痕跡がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係である。Il y a un certain nombre de traits qu'on peut voir chez l'homosexuel.   On l'a dit d'abord :  un rapport profond et perpétuel à la mère. (Lacan, S5, 29 Janvier 1958)


男性の同性愛者の女への愛[L'amour de l'homosexuel pour les femmes]は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「ひとりの女 Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。


男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。…


私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。(Pour vivre heureux vivons mariés par Jean-Pierre Deffieux、2013 ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller)




他方、プルースト、バルト、ジュネとは異なり、フーコーのように幼児期のことをほとんど語らず、抑圧し続けた作家もいる。日本にもドゥルーズ 研究から始めたチョロチョロしたヤツがいるがね。こういった連中にはリアルな真の愛は語れないだろうな、ま、せいぜい欲望とか快楽とかしか語れない。問いの力が弱い、気合い系のナルシシストにすぎない。よくはしらないことを断っておかなくちゃいけないが、少なくとも表向きはーーネット上に転がっている片言隻語を眺める限りはーー完全にそう見えるな。


もっともまだ若いようだからこの知的退行の21世紀にそこまで求めるのは酷なのかもしれないってのはあるよ。そもそもキャベツ頭が揃っている日本言論界でウケるのはせいぜいああいったヤカラが手頃なんだろうしな。


フロイトは何度も繰り返しているが、ここではダヴィンチ論から引用しとくよ。まともな、つまり自らの根を問い詰める力があるなら、最低限、この問いに降りてかなくちゃな。それでこそ真の同性愛作家だよ。もっともそれが可能になるのはオッカサマの死が必要なのかもしれないけどさ。



われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しいエロス的結びつき[erotische Bindung]があった、ーー母親自身の過剰な優しさ[Überzärtlichkeit] によって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中に父親があまり出てこないということによって。〔・・・〕


さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る。


子供は母への愛を抑圧する。それは、子供が自分自身を母の位置に置き、母と同一化 し、彼自身をモデルにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによってである。Der Knabe verdrängt die Liebe zur Mutter, indem er sich selbst an deren Stelle setzt, sich mit der Mutter identifiziert und seine eigene Person zum Vorbild nimmt, in dessen Ähnlichkeit er seine neuen Liebesobjekte auswählt. 



このようにして彼は同性愛者になる[Er ist so homosexuell geworden]。いや実際には、彼はふたたび自体性愛[Autoerotismus]に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理 であり更新に他ならないのだから[die der Heranwachsende jetzt liebt, doch nur Ersatzpersonen und Erneuerungen seiner eigenen kindlichen Person sind, die er so liebt, wie die Mutter ihn als Kind geliebt hat. ]。


言わば少年は、愛の対象[Liebesobjekte]をナルシシズムの道[Wege des Narzißmus]の途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソス[Narzissus]と呼んでいる。


心理学的にさらに究明してゆくと、このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着[Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert]したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠な者となる[Durch die Verdrängung der Liebe zur Mutter konserviert er dieselbe in seinem Unbewußten und bleibt von nun an der Mutter treu. ]


彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はそうすることによって、彼を不忠誠にしうる他の女たちから逃げ廻っているのである[Wenn er als Liebhaber Knaben nachzulaufen scheint, so läuft er in Wirklichkeit vor den anderen Frauen davon, die ihn untreu machen könnten. ]。



われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は標準的な男性と同様、女の魅力のとりこになること[daß der scheinbar nur für männlichen Reiz Empfängliche in Wahrheit der Anziehung, die vom Weibe ausgeht, unterliegt wie ein Normaler]を証明しえた。


しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に置き換え、絶えず彼がかつて同性愛を獲得したあの機制を繰り返すのである[aber er beeilt sich jedesmal, die vom Weibe empfangene Erregung auf ein männliches Objekt zu überschreiben, und wiederholt auf solche Weise immer wieder den Mechanismus, durch den er seine Homosexualität erworben hat. ](フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年)



………………


死の年のフーコー(57歳)は、インタヴューでこう言っている。


(サディズム/マゾヒズムの実践者は)身体をエロス化する[érotisant ce corps ]ことにより、身体の馴染みのない部位 [parties bizarres de leur corps]を以て、快の新しい可能性を発明している [inventent de nouvelles possibilités de plaisir] 。……私はこれを「快の脱性化 désexualisation du plaisir 」と呼ぶ。身体的快[plaisir physique ]は常に性的快 [plaisir sexuel] から来るという考え方、そして性的快は我々のあらゆる可能な快の根だという考え方ーーこれは全く間違っている[c’est vraiment quelque chose de faux]と私は思う。(フーコー M. Foucault, « Une interview : sexe, pouvoir et la politique de l’identité »、1984)


フーコーは『性の歴史』という大著を書いておきながら、精神分析を「優雅に」避けたせいなのか、フロイトの基本的なところも把握せず死んでいった。


a) 性的生 Sexualleben は、思春期からのみ始まるのではなく、出生後ただちに性的生の明瞭な顕れがある。


b) 「性的sexuell」概念と「性器的genital」概念とのあいだに注意深い区別をする必要がある。前者はより広い概念であり、性器 Genitalien とは全く関係がない多くの活動を含んでいる。


c) 性的生Sexuallebenは、身体諸領域 Körperzonen からの「快の獲得Lustgewinnung」機能によって構成されている。(フロイト『精神分析概説』1939年)

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である toute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。


あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)

ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰なアタッチメントを示している。それは母への固着[fixation sur la mère]であり、自己身体への固着[fixation sur le corps propre.]でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。


Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)



仮に贔屓目に言えば、フーコーは、理論ではなく行為にて、母による自己身体の上への刻印というリアルな欲動の固着を具現化し、死んでいったと言ってもよいかもしれないが。➡︎ 「母なるシニフィアンと母なる超自我


ここでニーチェを引こう。フロイトは理論的核のところではニーチェの確かな後継者だから。


性的悦と自傷行為は近似した欲動である。Wollust und Selbstverstümmelung sind nachbarliche Triebe. (ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)

苦痛と悦は力への意志と関係する。Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  (ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)


ラカンはニーチェにほとんど触れていないが、ニーチェの理論的隔世遺伝者に間違いない。


私が悦と呼ぶもの、身体を経験するという意味における悦は、つねに緊張・強制・消耗の審級、搾取とさえいえる審級にある。疑いもなく悦は、苦痛が現れはじめる水準にある。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ、有機体の全次元ーー苦痛の水準を外せば隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。ce que j'appelle jouissance au sens où le corps s'éprouve, est toujours de l'ordre de la tension, du forçage, de la dépense, voire de l'exploit. Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur, et nous savons que c'est seulement à ce niveau de la douleur que peut s'éprouver toute une dimension de l'organisme qui autrement reste voilée. (Lacan : Psychanalyse et médecine, Lacan, 16 février 1966)



フーコーにはニーチェの膨大なメモがあったそうだがね、そんな人がなぜーー死の直前でさえーーあんな1世紀遅れの発言をもっともらしくしてしまったのかというのはやっぱり理解に苦しむな。それとも通念にへばりついた言論界にウンザリしつつの敢えて凡庸さを選択した発言なんだろうか。


基本的に、すべての有機的生において、苦痛への意志がある。Es giebt einen Willen zum Leiden im Grunde alles organischen Lebens  (ニーチェ「力への意志」26[275]  遺稿、1882 - Frühjahr 1887)

すべての快において、苦痛が含まれている。もし快がきわめて大きいものなら、苦痛はとても長期にわたるものに違いない。そして屈服の緊張は途轍もない。in aller Lust ist Schmerz einbegriffen. - Wenn die Lust sehr groß werden soll, müssen die Schmerzen sehr lange, und die Spannung des Bogens ungeheuer werden. (ニーチェ「力への意志」35[15] 遺稿、1882 - Frühjahr 1887)


苦痛のなかの快[Schmerzlust]は、マゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

フロイトは書いている、「悦はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)


ーー《悦の意志は欲動の名である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion. 》(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888)


……………


とはいえ、である。フーコーの快を悦に読み換えうるなら、ドゥルーズよりはずっとマシかもな。



欲望と快楽 Désir et plaisir

最後に会った時、ミシェル(Foucault)は優しさと愛情を込めて、私におおよそ次のようなことを言った。僕は欲望 désir という言葉に耐えられない、と。もし君たちが異なった意味でその語を使っているにせよ、僕はこう考えたり経験せざるをえない、つまり欲望=欠如、あるいは欲望は抑圧されたものだと。ミシェルは付け加えた、僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望désir」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ、と。


La dernière fois que nous nous sommes vus, Michel me dit, avec beaucoup de gentillesse et affection, à peu près : je ne peux pas supporter le mot désir ; même si vous l’employez autrement, je ne peux pas m’empêcher de penser ou de vivre que désir = manque, ou que désir se dit réprimé. Michel ajoute : alors moi, ce que j’appelle « plaisir », c’est peut-être ce que vous appelez « désir » ; mais de toute façon j’ai besoin d’un autre mot que désir.

言うまでもなく、これも言葉の問題ではない。というのは、私の方は「快楽」という言葉に耐えられないからだ。では、それはなぜか? 私にとって欲望には何も欠けるところがない。更に欲望は自然と与えられるものでもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体となるだけだ。 


Évidemment, encore une fois, c’est autre chose qu’une question de mot. Puisque moi, à mon tour, je ne supporte guère le mot « plaisir ». Mais pourquoi ? Pour moi, désir ne comporte aucun manque ; ce n’est pas non plus une donnée naturelle ; il ne fait qu’un avec un agencement d’hétérogènes qui fonctionne ;〔・・・〕

言ってしまえば、私はこれらのことすべてに当惑する。というのは、ミシェルとの関係においてはいくつかの問題が湧き起こるからだ。私は快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。なぜなら快楽は欲望の内在的過程を中断させるように見えるから。


Si je dis tout cela tellement confus, c'est parce que plusieurs problèmes se posent pour moi par rapport à Michel : Je ne peux donner au plaisir aucune valeur positive, parce que le plaisir me paraît interrompre le procès immanent du désir ;〔・・・〕

私は自らに言う、ミシェルがサドに確かな重要性を結びつけ、逆に私はマゾッホにそうしたことは偶然ではないと。次のように言うことは十分ではない、私はマゾヒストでミシェルはサディストだと。とそれは当を得たように見えるが、本当ではない。マゾッホの中で私の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。〔・・・〕快楽とは、人の中に収まりきらない過程の中で、人や主体が「元を取る」ための唯一の手段のように思える。それは一つの再領土化だ。


Je me dis que ce n’est pas par hasard si Michel attache une certaine importance à Sade, et moi au contraire à Masoch.  Il ne suffirait pas de dire que je suis masochiste, et Michel, sadique. Ce serait bien, mais ce n’est pas vrai. Ce qui m’intéresse chez Masoch, ce ne sont pas les douleurs, mais l’idée que le plaisir vient interrompre la positivité du désir et la constitution de son champ d’immanence […] Le plaisir me paraît le seul moyen pour une personne ou un sujet de « s’y retrouver » dans un processus qui la déborde. C’est une re-territorialisation. (ドゥルーズ「欲望と快楽 Désir et plaisir」1994年『狂人の二つの体制 Deux régimes de fous』所収)



《欲望には何も欠けるところがない。désir ne comporte aucun manque》ってのは、トッテモ不幸な錯誤だね、いくら脱領土化-領土化とかを捏ね回したってムダさ。20世紀後半の知の最大の恥! ソクラテスが泣くよ。



「エロスはそのなにかを欲しているのだろうか、それとも欲してはいないのだろうか?」「もちろん、欲しています」と彼は言った。「それでは、エロスがそのなにかを欲し求めるのは、それを所有しているときだろうか、それとも、所有していないときだろうか?」「所有していないときでしょう。おそらくですが」とアガトンは答えた。「ちょっと考えてほしいのだが」とソクラテスは言った。「おそらくではなく、必然的にそうなのではあるまいか― 欲するものがなにかを欲するのは、それが欠けているからであり、何も欠けていないなら欲しなどしないということは。アガトン、私には、このことが完全に必然的なことに思えるのだ。あなたはどう考える?」「賛成します」。

Ἔρως ἐκείνου, οὗ ἔστιν ἔρως, ἐπιθυμεῖ αὐτοῦ ἢ οὔ; Πάνυ γε, φάναι. 

Πότερον ἔχων αὐτὸ οὗ ἐπιθυμεῖ τε καὶ ἐρᾷ, εἶτα ἐπιθυμεῖ τε καὶ ἐρᾷ, ἢ οὐκ ἔχων; 

Οὐκ ἔχων, ὡς τὸ εἰκός γε, φάναι. Σκόπει δή, εἰπεῖν τὸν Σωκράτη, ἀντὶ τοῦ εἰκότος εἰ ἀνάγκη οὕτως, τὸ ἐπιθυμοῦν ἐπιθυμεῖν οὗ ἐνδεές ἐστιν, ἢ μὴ ἐπιθυμεῖν, ἐὰν μὴ ἐνδεὲς ᾖ; ἐμοὶ μὲν γὰρ θαυμαστῶς δοκεῖ, ὦ Ἀγάθων, ὡς ἀνάγκη εἶναι· σοὶ δὲ πῶς; Κἀμοί, φάναι, δοκεῖ. (プラトン『饗宴』200a



しかもドゥルーズ は《マゾッホの中で私の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。 Ce qui m’intéresse chez Masoch, ce ne sont pas les douleurs, mais l’idée que le plaisir vient interrompre la positivité du désir et la constitution de son champ d’immanence》とまで言ってんだからな、ちょっと耐えがたいな、このマゾヒズムの凡庸化。➡︎ドゥルーズの大きな欠陥


耐え難いのはもはや重大な不正などではなく、日々の凡庸さが恒久的に続くことだ。L'intolérable n'est plus une injustice majeure, mais l'état permanent d'une banalité quotidienne. (ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』1985年)


ーー自らに向けて言ったんだったらカワイイところはないではないが。


樫村晴香は、「ドゥルーズのどこが間違っているか」(1996年)で、ニーチェの身体的出来事としての永遠回帰を、ドゥルーズ やハイデガー は哲学化して凡庸化したという意味合いのことを「とても鋭く-とても正しく」指摘しているが、マゾヒズム もドゥルーズ にかかったら痛みと関係ないなんてね、ウンコちゃん哲学者だな。ーーやあシツレイ! ドゥルーズファンのみなさん。ドゥルーズ はいいとこもたくさんあるよ、でもやっぱり「哲学者」なんだな、真の肉体がないよ、いくら何でもドゥルーズ &ガタリ風の「欲望」や「マゾヒズム」にこの今になっても踊ってたらトッテモ恥ずかしいよ。


ま、ようするにアンチオイディプスの内実は、実はアンチニーチェだ。


悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.


…すべての悦は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)

悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年