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2021年1月30日土曜日

これはいつまで続くんだろうね

 「これはいつまで続くんだろうね」とは20年前の中井久夫の発言だが、あともう少しだよ。そうしたらいくらかはスッキリするさ。


◼️「批評空間」2001 Ⅲ-1 斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」

浅田)マクルーハンの言うグローバル・ヴィレッジではなくローカル・ヴィレッジがおびたたしく分立して、その内部で…馴れ合っているかと思うと、とつぜんキレる。そういう1か0かのコミュニケーションが多いですね。


斉藤)コミュニケーション・チャンネルは複数が並行して使われ、会って話し、携帯で話し、メールを送り、手紙を渡してと、非常に密に使われている一方、内容には深まりがない。とくに個人的な葛藤がほとんど語られなくなっている。もちろん恋愛などの対人葛藤は出てくるのですが、個人の内面的葛藤は、相手がまったく受け入れないことが分かっているので、出てこない。出そうとしない。


浅田)浅いコミュニケーションがものすごく広がった社会なんですね。しかし、そのー方で、「充実したコミュニケーション」という理想がどこかにあって、それが実現されないのでコミュニケーションから撤退するという人たちもいる。ひきこもりもそういうケースがあるように思います。例えば、「親は、言葉を聞くだけで、自分の本当の気持ちを分かってくれない」などという子供がいる。本当の気持ちなんか分かるわけないんで、言葉を聞いてくれるだけでもありがたいと思え、と(笑)。むしろ、本当の気持ちを分かり合うなどという方が気持ち悪いでしょう。けれども、そういう上っ面だけのインチキなコミュニケーションには耐えがたい、だからコミュニケーションそのものを切断してひきこもる、という人がいるわけです。それはもともとの前提が間違っているのではないか。


斎藤)ただ、数十万の規模で存在するひきこもりの人々に向かって、「君たちは間違っている」とは言えない。間違いであることを承知しつつ、そういう人たちを一旦は受け入れなければいけないでしょう。PTSDについても同じで、「小さな傷を事々しく言い立てているだけではないか」とは言えない。まず、本人にとっての真実、すなわち「心的現実」を享け入れるところから始めざるを得ないんですね。


浅田)治療者としての立場からそう言われるのはよく分かります。ただ、社会一般の現象として見た場合、一方で浅いコミュニケーションが全面化し、他方でありもしない深いコミュニケーションを求めたあげくひきこもりに帰着するという現状は、不毛な二極分解と言わざるを得ないですね。


斎藤)ラカン的に言うと、言葉によるコミュニケーションというのは、コミュニケーションの不可能性の方が先にあって、その上で成り立っている奇跡的なものとしてのコミュニケーションであるわけですから、そういう捉えかたのほうが真っ当だとは思います。しかし、治療の場面では「それを言っちゃあおしまい」ですから(笑)。


浅田)まあ、ラカンのように難しいことを言うまでもなく、人間は互いに分かり合えない、だからこそコンフリクトを重ねつつ共存していくんだ、という大前提が、ふと気がついてみたらまったく共有されなくなっていた、そのことにはさすがに愕然としますね。


斎藤)ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいてもやはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。


中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね。


斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。


中井)これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。


斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。


浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。

斎藤)もうひとつ、われわれの世代が子どもを持つようになって、親による児童虐待の比率がものすごく高まってきています。


中井)そのようなんだよね。


斎藤)すると、今の50代から60代の親たちのように、たとえ殴られても自分の子だからと言って大切に抱え込んでしまうケースは、今後は確実に減っていくでしょう。それを考えると、ひきこもりは今後減るだろうという予測もできるわけです。


浅田)むしろ、幼児虐待の方が心配ですね。


斎藤)もうひとつ、むしろ心配なのは、四六時中浅いコミュニケーションを続けながら自我を維持している若者が、果たしてそのコミュニティからはずれてしまったとき一体どうなるだろうということです。浅田さんが以前に「アーバン・トライバリズム」とおっしゃっていたけれど、まさにそのとおりで、みな村人なんです。近くに住んでいるということだけで、貧富の差も、勉強のできるできないもない、みな同じようなジャージを着、毎日のように集まってお喋りしている。非常に均質化されて素朴な、どこか先祖帰りしてようなコミュニティです。池袋の若者は渋谷や新宿に行くと疲れると言います、文化が違うのか(笑)。せっかく携帯端末を持っているんだから、グローバルにつながればいいじゃないかと思うのですが、結局は、数百メートル四方の知った顔同士のつながりです。携帯というのは、そういうトライバリズムを強化しているツール、閉じた共同体の浅いコミュニケーションを延々と続けるためのツールなんです。


浅田)まあ、平和な村の暮らしがつづいている間はいいんだろうけれど…。

(「批評空間」2001 Ⅲ-1 斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より)




これを読むと、斎藤環は共同体内部の人に過ぎないとあらためて思うね、今はいっそうそうなんじゃないか。浅田に倣って、ムラ社会内部の「治療者としての立場」としてはやむえないが、と言っておくが。


たとえばこれだけ見れば共同体内部の治療者としては実に正当的主張だ。





とはいえ斎藤環自身、ムラビトなのであって、彼には外部がない。最近のツイートを見る限りだが、既存のシステムが存続するという前提でしかものを言っていない。中井久夫や浅田彰はそこだけに止まっていないのは上に見た通り。


ここで30年以上前の柄谷を引用しておこう。


柄谷行人) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。


文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)



ここで「現在の左翼は「人間の顔をした世界資本主義者」に過ぎない」からこうも再掲しておこうか。


一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、〔・・・〕我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。〔・・・〕


現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ZIZEK, A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)



私は斎藤環の発言にはときに大きな違和感を覚えることがあるのだが、ムラビトの当面の治療に専念しているムラのお医者さんだという前提に立って許容しなくちゃいけないんだろううよ。医者とはそういうものだということかも知れないし、ああいう人物が必要なのは間違いないのだから。