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2021年2月26日金曜日

失敗が深刻なほど今を逃れることしか考えなくなるのは人間の性

ははあ、魔笛さんという人はとっても言いこと書いてるな


金融政策、果断に出口戦略を

日本経済新聞「大機小機」2021年2月25日 

政府の債務残高は2020年末時点で、対国内総生産(GDP)比238%と世界最悪である。貨幣量も異次元緩和で618兆円にまで膨らんだ。異常な金融緩和でカネがだぶつき、株価はバブル崩壊後30年ぶりの高値で、新型コロナウイルス禍以前よりもはるかに高い。米国株価も同様で史上最高値を更新した。


危機的状況なのは明らかなのに、日銀も政府も出口戦略のシナリオをまったく示さない。政府は成長戦略に必要と言い、日銀はインフレ期待に働きかけると言い続け、効果がないのは緩和がまだ足りないからだという。


こういうときには、都合の良い理論も登場する。巨額の財政赤字には現代貨幣理論、異次元緩和にはインフレ・ターゲット理論だ。コロナ禍が重なり、先の見えない拡張政策はますます正当化される。


株高についても同様だ。投資会社はワクチン登場をその理由に挙げるが、効果も副作用も不確実な点があるのに、株価がコロナ禍以前の値を回復し、さらに超えるはずがない。同じことは米株価でも言える。いずれも異常な財政拡大と金融緩和が引き起こしたバブルと考えるのが自然だ。30年前を思い起こせば、今後の行方が恐ろしい。


政府も日銀も投資会社もなぜ危機を直視せず、これほど大胆で無謀になれるのか。理由は失うものが大き過ぎるからであろう。人は小さな間違いなら簡単に直せるが、間違いが深刻で責任が大きいほど、それを認めまいと言い訳を探し、固執する。


経済学には時間選好という概念がある。人々が将来と比べて今をどのくらい重視するかという指標だ。最近の行動経済学の研究では、時間選好は豊かな者ほど低く、貧しい者ほど高い。つまり、現状で余裕がある人ほど先を考え、追い詰められている人ほど考えない、ということだ。


実際、失敗が深刻なほど今を逃れることしか考えなくなるのは人間の性であり、権力者も同様だ。個人なら失敗が顕在化しても被害は個人にとどまるが、権力者なら被害を受けるのは一般庶民だ。人間の性だとのんびり構えてはいられない。


すぐ対処してもらうために過度な責任追及を控え、心機一転して出口戦略を練ってもらう必要があろう。それが無理なら、新たな人に交代してもらうしかない。

(魔笛)



もう今更遅いけどさ、新しい人に交代したって。


でも「失敗が深刻なほど今を逃れることしか考えなくなるのは人間の性」ってのはとってもいいねえ、ジャン=ピエール・デュピュイ的で。



数多くのカタストロフィーが示している特性とは、次のようなものです。すなわち、私たちはカタストロフィーの勃発が避けられないと分かっているのですが、それが起こる日付や時刻は分からないのです。私たちに残されている時間はまったくの未知数です。このことの典型的な事例はもちろん、私たちのうちの誰にとっても、自分自身の死です。けれども、人類の未来を左右する甚大なカタストロフィーもまた、それと同じ時間的構造を備えているのです。私たちには、そうした甚大なカタストロフィーが起ころうとしていることが分かっていますが、それがいつなのかは分かりません。おそらくはそのために、私たちはそうしたカタストロフィーを意識の外へと追いやってしまうのです。もし自分の死ぬ日付を知っているなら、私はごく単純に、生きていけなくなってしまうでしょう。


これらのケースで時間が取っている逆説的な形態は、次のように描き出すことができます。すなわち、カタストロフィーの勃発は驚くべき事態ですが、それが驚くべき事態である、という事実そのものは驚くべき事態ではありませんし、そうではないはずなのです。自分が否応なく終わりに向けて進んでいっていることをひとは知っていますが、終わりというものが来ていない以上、終わりはまだ近くない、という希望を持つことはいつでも可能です。終わりが私たちを出し抜けに捕らえるその瞬間までは。


私がこれから取りかかる興味深い事例は、ひとが前へと進んでいけばいくほど、終わりが来るまでに残されている時間が増えていく、と考えることを正当化する客観的な理由がますます手に入っていくような事例です。まるで、ひとが終わりに向かって近づいていく以上のスピードで、終わりのほうが遠ざかっていくかのようです。

自分ではそれと知らずに、終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう、完全に客観的な理由をひとは手にしているのです。驚きは全面的なものとなりますが、私が今言ったことはみな、誰もがあらかじめ知っていることなのですから、驚いたということに驚くことはないはずです。時間はこの場合、正反対の二つの方向へと向かっています。一方で、前に進めば進むほど終わりに近づいていくことは分かっています。しかし、終わりが私たちにとって未知のものである以上、その終わりを不動のものとして捉えることは本当に可能でしょうか? 私が考える事例では、ひとが前へと進んでも一向に終わりが見えてこないとき、良い星が私たちのために終わりを遠く離れたところに選んでくれたのだ、と考える客観的な理由がますます手に入るのです。(ジャン=ピエール・デュピュイ「極端な出来事を前にしての合理的選択」PDF)



➡︎「終わりに最も近づいている瞬間にこそ、終わりから最も遠く離れていると信じ込んでしまう」メカニズム