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2021年2月3日水曜日

詩とひどい目

 ははあ、マラルメはやっぱりひどい目にあってんだな。においはしたが具体的にはいまごろ初めて知ったよ


マラルメは五歳のときに母を失い、十五歳のときに妹を失い、その二年後には女友だちの病死に立ち会い、二十一歳で父を失って孤児同様となり、さらに後年には若い頃の片思いの相手で友人の妻となった女性の死に遭い、それからまもなく今度は自分の息子の死に直面する。幾多の親しい者たちの死に出会うたびに、散文や詩を書いた。また敬愛する詩人の死にさいしても、数多くの哀惜の念にあふれた詩を作っている。 《私の友が旅立ってはじめて、そのときから本当に私は彼らとともに、また私の「夢」のかたわらにいる彼らの思い出とともにいるのである。》このように告白するマラルメは、まるで生者よりも死者のために生きているかのようである。死者を語るときも、多くの場合は自己を語っていて、亡き詩人の栄光のなかに自己の詩を投影させている。


先輩詩人を別にすれば、彼が死別してきた親しい者の多くは女性である。マラルメにおいて、女性にたいする観念が死者にたいする観念を呼び起こすとしても不思議ではあるまい。妻ですら、生命感の乏しい、現在や未来よりも過去につながる女性である。そこにない自己の理想を求めることと、そこにいない女性に呼びかけることとは、マラルメにとってはほとんど同義の意味をおびている。〈詩〉は〈死〉と〈女性〉に緊密に結びつけられている。したがって、現実から逃れるためにその出口を探すとき、当然その通路は〈未来〉ではなく〈過去〉に通じている。《ゆえに、自然に対しては、マラルメは 「微笑む」 以外に成す術がないと考えたが、一方、言葉にたいしては、そのことが否定的に証明されているにもかかわらず、言葉へと通じた通路がどこかにあることを常に望んでいた。 私見によれば、この希望こそが、彼の詩学の真の源泉である。 なぜなら、この希望だけが彼の生に存在理由をあたえていたからである。》(イヴ・ボンヌフォワ) 

〈死〉ときわめて近いところに位置しているマラルメの〈詩〉が、《沈黙から発し、沈黙へ戻る》のも当然であろうし、またサルトルが言うように、その充溢した瞬間が実際は不在に満ちたものであるのも、必然的な成り行きであったろう。しかし他者の意味も、自己の生の意味も、年を経るにしたがい微妙に変化する。ボンヌフォワの言葉とサルトルの言葉はほとんど同一の基盤に立っているように見えるが、前者はその通路が〈過去〉に向かう限りにおいては1866年以前のマラルメの姿であり、後者はその不在が〈死〉の固定観念を(少なくとも以前ほど直接的には)引き起こさない限りにおいては、1866年以後、より正確には1870年代以後のマラルメを語ったものである。(山中哲夫「初期のマラルメに関するテーマ研究試論(1)、1993年)



すぐれた詩はやっぱりひどい目から生まれるのかね、ヴァレリーなんかもそうだし。➡︎「詩の基底にあるもの




Soupir


Stéphane Mallarmé


Mon âme vers ton front où rêve, ô calme soeur,

Un automne jonché de taches de rousseur,

Et vers le ciel errant de ton oeil angélique

Monte, comme dans un jardin mélancolique,

Fidèle, un blanc jet d’eau soupire vers l’Azur !

– Vers l’Azur attendri d’Octobre pâle et pur

Qui mire aux grands bassins sa langueur infinie

Et laisse, sur l’eau morte où la fauve agonie

Des feuilles erre au vent et creuse un froid sillon,

Se traîner le soleil jaune d’un long rayon.




◼️Anne Sofie von Otter: The complete "3 Poèmes de Stéphane Mallarmé" (Ravel)



ためいき


私の魂は、おお、静かな妹よ、落葉の色が点々と

斑に散らばる秋が夢みる  君の額の方へむかって、

また  天使のような君の瞳の  ゆらめく空の方へむかって、

立ち昇る、それはさながら  愁いにふさぐ庭園で、

たゆみなく青空へ  ためいき洩らす一筋の白い噴水!

ーー青空は、仄白い鈍い十月に色も和んで、

きわみないその物憂さを大きな地の水面に映して、

浮かぶ落葉の褐色の苦悩が  風にただよい

冷たい水尾をひきつつ動く  淀んだ池水の上に

ながながと  黄色い太陽の光線が遍うにまかせる (松室三郎訳)


……………



マラルメ信者の方々には「通俗的な」俊で劣化させて申し訳ないがやっぱりこれだよ



あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい


ーーかなしみ   谷川俊太郎





空の青さをみつめていると

私に帰るところがあるような気がする


ーー六十二のソネット「41」




モノ=享楽の空胞  [La Chose = vacuole de la jouissance](Lacan, S16, 12 Mars 1969)

享楽の対象…モノ…それは快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

モノとしての享楽の価値は、穴と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)



で、さらに言えばやっぱりこうなんだよな



どうせ、女たちは墓石にまたがってお産をしているようなものなのだ(ベケット『ゴドーを待ちながら』)

くびくくられる/めんどりのように「女たちは墓穴にまたがって難産をする」(吉岡実「にわとり」『薬玉』所収)





例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



フロイトラカンなんか知ると詩や文学なんかまともに読めなくなるからな

ゼッタイ触れるべからずだよ



詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である。la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)



ヤチ語を極力避けて語ろうとする中井久夫ぐらいにしといたほうがいいよ





いやあでもこれも似てるな、縦にしたら。






あーめん!



・・・最近は西脇さえまともに読めなくなっちまったからな



秋   西脇順三郎


灌木について語りたいと思うが

キノコの生えた丸太に腰かけて

考えている間に

麦の穂や薔薇や菫を入れた

籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。

生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で

神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。



カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。


菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。…


菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)