このブログを検索

2021年2月4日木曜日

主体のパートナーは人間ではなく言語

 


主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である。le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


この一見奇妙に思われるかもしれない見解は、だがプルーストやニーチェが概念や観念という言葉を使って既に似たようなことを言っている。


まずプルースト 。

「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為なのだ。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念[notions ]を注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである[chaque fois que nous voyons ce visage et que nous entendons cette voix, ce sont ces notions que nous retrouvons, que nous écoutons. ] 。(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳)

われわれがいとしい人々を見るのは、生きて動いている組織のなか、われわれのやむことのない愛情の永久の運動のなかにおいてでしかないのであって、愛情は、いとしい人々の顔がわれわれにさしむける映像をわれわれにとどかせるまえに、それをおのれの渦巻のなかにとらえ、そうした映像をいとしい人々についてわれわれがつねに抱きつづけている観念[ idée] の上に投じ、その観念に密着させ、その観念に一致させるのだ。プルースト「ゲルマントのほうへ Ⅰ」 井上究一郎訳)


見ての通り、人は概念や観念を通してしか人間を見ていないと言っている。


次にニーチェ。

なおわれわれは、概念の形成[Bildung der Begriffe]について特別に考えてみることにしよう。すべて語[Wort]というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験 [Urerlebnis]に対して、何か記憶というようなものとして役立つとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合も同時に当てはまるものでなければならないとされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである [Jeder Begriff entsteht durch Gleichsetzen des Nichtgleichen]。


一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性[Verschiedenheiten ]を任意に脱落させ、種々相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得る何かが存在するかのような表象[Vorstellung] を呼びおこすのである。つまり、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形[Urform ]というものが存在するかのような観念[Abbild ]を与えるのである。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽についてÜber Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinne」1873年)


ここで言っているのは「等しからざるものを等置する」木の葉という概念は、木の葉の一枚一枚の固有性を消し去る、ということだ。


こういった観点はーー私はヘーゲルを知らないがーー、ヘーゲルにもあるようだ。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


象徴的去勢とは、言語の使用による身体的なものの喪失ということである、《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


この去勢は、言葉に疑いをもつ人なら表現の仕方は異なっても実感するようになるのだろう、特に詩人ならいっそう。



散文を書く時は、たとえ難渋するにしても、それは主題との格闘であって、言語そのものに対しては「大地の感覚」を維持している。散文においても言語は「発見」の道具でありうるが、言語を「発見論」的にしようしてはいない。「発見論」的使用とは、発見のために闇を探ることであり、それは決して何かを証明することはなく、常に「悪魔と深い海との間に落ちる」危うさがある。詩とは言語の「発見論的」使用であり、それゆえの徴候あるいは余韻、索引への敏感性があるということができると私は考える。(中井久夫「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第37巻5号、1994年5月『家族の深淵』所収)



そもそも「私」とか「あなた」とかいう言葉は奇妙な語である。



「私」という語彙のごく日常的な言語操作に難儀する者はまずいないだろうが、だからといって、人称代名詞としての「私」がそのつど確かな指示対象を持っているかといえば、これは大いに疑わしい。それは「私」にかぎられたことではなく、「転位語」と呼ばれている「あなた」だの「ここ」だの「昨日」だのに見られる一般的な特徴にほかならず、その指示対象を確保するには、「私」を主語とする言説の主体が聞き手に現前していなければならない。すなわち、自分を「私」と呼ぶ何者かの存在は、そう口にする瞬間、その声と同様に視覚的にも認識されるという空間的な状況が成立した場合、そのときのみ、初めてその支持対象は明らかになる。だが、それに対して、聞き手もまた自分を「私」と名指しつつ応えることになるのだから、「私」が、「空」だの「花」だの「草」だののように固有の指示対象を持っていないことは明らかである。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』2008年)



もしこれらの語に人が「まったき大地の感覚」を抱いているなら、SNS等による「現代の病い」のせいではないか。とくにツイッターは《「私」を主語とする言説の主体が聞き手に現前して》いるという錯覚を与える装置である。少なくとも「書く」ではなく「話す」装置である。



パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている。エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師 Ecrivains, intellectuels, professeurs」1971年『テクストの出口』所収)


《エクリチュールはパロールが不可能になる所から始まる[l'écriture commence là où la parole devient impossible.]》とバルトは言っている。この言葉を額面通り取れば、ツイッター装置でのパロールは、作家を死に至らしめるだろう。たんに教師や知識人になってしまうだろう。もちろん「話すこと」による新しい可能性を探っている作家がいるのを知らないわけではない。だがいったいどんな可能性があるというのだろう。フロイトが『グラディーヴァ』で言ったように、《詩人は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾けて芸術的な表現を与える》ことが喪われるなどと言わないまでも、すくなくとも自己吟味の消滅に向かう気がしてならない、ーー《自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。》(古井由吉『「私」という白道』1986年)


問いは何よりもまず一人称単数代名詞である。



これを読んでいるのは書いた私だ

いや書かれた私と書くべきか

私は私という代名詞にしか宿っていない

のではないかと不安になるが

脈拍は取りあえず正常だ


ーー谷川俊太郎「朝」より

『詩に就いて』所収(2015年)


一人称代名詞とはラカン派では「シニフィアンの主体」の代表的なものである。そして主体ーー斜線を引かれた主体$ーーは、「主体の穴」もしくは「主体の不在」と呼ばれる。


主体の穴 le trou du sujet (Lacan, S13, 08 Décembre 1965)

現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


ラカンは、主体の不在[l'absence du sujet]の場処を示すために隠喩を使い、詩的に表現した、《欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 [rond brûlé dans la brousse des pulsions]》(E666, 1960)と。欲動の薮、すなわち享楽の藪[la brousse de la jouissance]である。享楽のなかの場は空虚化されている[où dans la jouissance une place est vidée]。この享楽の藪のなかの場は、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]が刻印されうる. (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008, 摘要訳)


この主体の穴ーーその内実は身体のリアル、あるいは欲動の主体ーーを穴埋め=防衛して、言語の主体として社会的結びつきを為そうとするのが、ラカンの「言説」の意味であり、これを幻想と呼ぶ。


幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)



ラカンには四つの言説という人間の社会関係を構造化した理論があるが、そのベースとなる基盤図と基本的な読み方は次のものである。



ところで日本語にはsubjectに相当する語が三つある。主体、主語、主観である。これを上の図に当てはめてみよう。




この図を簡単に読もう:「主語」としての「私」は「主体の穴」ーー欲動の身体ーーを隠蔽しつつ「他者」と関係をもつ。この他者とはプルーストが言うように《
人々についてわれわれがつねに抱きつづけている観念》に過ぎない。その意味で「主観」である。主語と主観のあいだのコミュニケーションは当然うまくいかない。それゆえ剰余(享楽)ーー喪失と穴埋めの両方の意味を持っている[参照]ーーが生じる。そしてこの剰余は「主語」に回帰し循環運動が起こる。ときに主体の穴という身体のリアルが暴発する。


基本的には人間のコミュニケーションとはこうではないかという図式である。さてどうだろう。これは容易に納得できないかも知れないが、冒頭のジャック=アラン・ミレールの「(シニフィアンの)主体のパートナーは人間ではなく言語」を私なりに翻訳すれば、上の図になる。


……………


最後に何度か引用しているがとても感心した、谷川の一人称単数代名詞をめぐる文を掲げておこう。



四十余年前、主に「僕」という一人称を使って私は詩を書き始めました。ふだんも私は僕と言っていて、友人同士のあいだではときに俺になることもあったにしろ、それはごく自然な選択だったと思います。作品における一人称と現実の私とのあいだに、ほとんど距離はなかったと見ていいでしょう。第二詩集である「六十二のソネット」では一人称は「私」に統一されています。どうして「僕」を「私」に変えたのか、はっきりした記憶はありませんが、もしかすると一種の背伸びだったのかもしれない。本来はなかったであろう「僕」のニュアンス、いささか子どもっぽい、ときにはカマトトともとられかねない感じが一九五〇年代にはもうあって、それを避けたかったのでしょう。


それ以後の作では「僕」「私」「俺」などが混在しています。作品の中に作者、すなわち私自身ではない主人公が登場し始めたということもありますが、その主人公が直接話法で語らない場合にも、詩を書いている私と、詩の中の私とのあいだに一篇一篇の作によって異なるにしろ微妙な距離がでてきたことがその理由でしょう。つまり詩を一種のフィクションとして書くことを、私は知らず知らずのうちに覚えたと言えます。しかしこのことはこういう単純な説明では解明できない、詩というものの本質にかかわっています。私はいまだに一貫した一人称を用いることが出来ず、一篇の作を書き始めるごとに、どんな一人称にしようか迷うことが多いのです。


近作「世間知ラズ」と「モーツァルトを聴く人」では「ぼく」が使われていて、それは当時の私の気分による、意識的な選択でした。「私」に比べると「ぼく」は一種の傷つきやすさがあり、その頼りなさが私には必要だった。その「ぼく」は「二十億光年の孤独」の中の「僕」とは違うと私は考えています。


一篇の詩とその作者である詩人との関係は、ふつう考えられているよりはるかに複雑微妙で流動的です。一篇の詩はたしかにその作者の現実生活なしでは生まれてこないものですが、その詩に述べられた考えや感情が、そのまま作者である詩人が現実に抱いたものであるかと言えば、そうは言えないことも多いのです。詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩において言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。


作者である詩人は「形」の中にひそんでいる。何かを言いたいから書いたのだという視点からだけでは、詩の中の「私」はとらえられないと思いますし、詩に書かれている内容をもとにして、詩人の正邪を断罪するのも公平でないと思う。とは言うものの、詩が散文による書き物と違って、この世の道徳的判断からまったく免責されているというふうには私も考えていません。詩人はたぶん現実世界から見れば不道徳な存在とならざるをえない一面をもっていて、その自覚なしには彼ないし彼女はこの世に生きてはいけないのです。自らのいかがわしさを通して、詩人は世間にむすびつくと今の私は考えています。(谷川俊太郎「私」1995年)