『資本論』冒頭近くの次の文は、純粋に上のラカンの第一段階と第二段階を示している。
さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換比率がどうであれ、 この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦= a ツェントネル鉄というふうに。この方程式は何を物語るか? Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in einer Gleichung, worin ein gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1 Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese Gleichung? |
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様に a ツェントネル鉄にも、同一の大きさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。 Daß ein Gemeinsames von derselben Größe in zwei verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr. Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten, das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden, soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte reduzierbar sein. |
一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1―に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。 Ein einfaches geometrisches Beispiel veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu bestimmen und zu vergleichen, löst man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck - das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen. |
この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性であることはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性であることはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値[Gebrauchswerten]にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品間の交換関係をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言っているように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大きさであるならば、他の商品と同じだけのものである。このばあい同一の大きさの交換価値を有する物の間には、少しの差異または区分がない。」 Dies Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische, chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis der Waren augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden ist. Oder, wie der alte Barbon sagt: »Die eine Warensorte ist so gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem Tauschwert.«(マルクス第一篇第一章第一節「商品の二要素 使用価値と価値(価値実体,価値の大きさDie zwei Faktoren der Ware: Gebrauchswert und Wert (Wertsubstanz, Wertgröße)」) |
そして使用価値は斜線が引かれている。
もし商品が話すことができるならこう言うだろう。われわれの使用価値[Gebrauchswert]は人間の関心をひくかもしれない。だが使用価値は対象としてのわれわれに属していない。対象としてのわれわれに属しているのは、われわれの(交換)価値である。われわれの商品としての交換がそれを証明している。われわれは互いにただ交換価値[Tauschwerte]としてのみ互いに関係している。Könnten die Waren sprechen, so würden sie sagen, unser Gebrauchswert mag den Menschen interessieren. Er kommt uns nicht als Dingen zu. Was uns aber dinglich zukommt, ist unser Wert. Unser eigner Verkehr als Warendinge beweist das. Wir beziehn uns nur als Tauschwerte aufeinander.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
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したがって次のように図示できる。
一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される[der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. ](マルクス『資本論』第一篇第三節「相対的価値形態Die relative Wertform」) |
一つのシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年) |
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どんな商品も等価物としての自分自身に関連することはできず、したがってまたそれ自身の自然的外皮をそれ自身の価値の表現にすることはできないから、どんな商品も等価物としての他の商品に関連せざるをえない。Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn (マルクス第一篇第一章第三節「等価形態 Die Äquivalentform」) |
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(表象)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966) |
シニフィアンは、それが言語の部分であるという限りで、他の記号と関連する一つの記号である。言い換えれば、二つ組で己れに対立する。le signifiant, en tant qu'il fait partie du langage, c'est un signe qui renvoie à un autre signe, en d'autres termes : pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン, S3, 14 Mars 1956) |
後はここに剰余価値をおけば、言説構造(=社会的関係構造)の基礎が出来上がる。
主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象されうるものである。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体は何に対して表象されるのか? ーー使用価値である。 Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant, mais est-ce que ce n'est pas là quelque chose de calqué sur le fait que, valeur d'échange… le sujet dont il s'agit, dans ce que MARX déchiffre, à savoir la réalité économique …le sujet de la valeur d'échange est représenté auprès - de quoi ? - de la valeur d'usage. |
そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値[plus-value]と呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。 主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえない 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽[plus de jouir] と呼ばれるものである。 Et c'est déjà dans cette faille que se produit, que choit, ce qui s'appelle la plus-value. Ne compte plus à notre niveau que cette perte. Non identique désormais à lui-même, le sujet, certes ne jouit plus mais quelque chose est perdu qui s'appelle le « plus de jouir ». (Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
※上にあるように剰余享楽はは享楽喪失と穴埋めという二つに意味でラカンは使っている場合がある(参照)。
le plus-de-jouirとは、「喪失」と「その穴埋めとしての別の獲得の投射」の両方を表現している。« plus-de-jouir »の« plus » には、先ずは「もはや享楽は全くない」を意味する。le plus-de-jouir. Il s'y présente à la fois comme la perte et le projet d'un autre gain qui compense. [...] Dans « plus-de-jouir », le « plus » a deux sens, et veut d'abord dire « plus du tout » de jouissance. (Gisèle Chaboudez, Le plus-de-jouir , 2013) |
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以上、商品語と人間語の「交換=コミュニケーション」における構造的同一性が提示できて筈である。
この図の底部にはラカンの幻想の式[$ ◊ a]がある。 |
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幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである。Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982) |
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穴とは去勢と等価である。
穴=去勢=享楽控除とは、全身体から身体的なものの一部を喪失することであり、この穴は、労働生産物が使用価値が交換価値となることで、使用目的としての身体的なものを喪うのと相同的である(より厳密に言えば、この交換=コミュニケーションによって発生する喪失=穴は象徴的穴(象徴的去勢)であり、これを「象徴界のなかの現実界の機能」と呼ぶ。ラカンには他に固着によるリアルな穴、出産外傷による原穴等があるが、それについてはここでは割愛[参照])。 |
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現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965) |
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上にも示したが、穴の別名は斜線を引かれた享楽であり、これが斜線を引かれた主体である。 |
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私は、斜線を引かれた享楽を主体と等価とする。le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer […]- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008) |
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ーー《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。 Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
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他方、剰余享楽とは穴埋めである。 |
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ラカンは享楽と剰余享楽を区別した[il distinguera la jouissance du plus-de-jouir]。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) ](J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986) |
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穴としての享楽は事実上、斜線を引かれた主体である。ーー《ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet》(J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007) |
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対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。この穴としての対象aは、主体との関係において我々に問いを呼び起こす。C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. (ラカン、S16, 27 Novembre 1968) |
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ここでの大他者は身体のことである。 |
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大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967) |
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身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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そして次の引用すれば、いっそうマルクスとラカンの相同性が確認できる筈である。 |
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私が対象aと呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche (Lacan, AE207, 1966年) |
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装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。〔・・・〕実に私が剰余享楽と呼ぶものは、剰余価値であり、マルクスの悦、マルクスの剰余享楽である。 la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. [...] C'est bien le cas de vérifier ce que je dis du plus-de-jouir. La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
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症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。 la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Laca,.S.18,16 Juin 1971) |
※フェティシズム剰余価値についての厳密なマルクスの記述は「フェティシズムと剰余価値文献」を参照されたし。
商品語図を人間語図に書き直せば次の通り。
ーーここでのアタシとアナタはシニフィアンの主体ということである。言語の主体と言ってもよい。そしてどちらもリアルな穴を抱えている。
ラカンは「主体の不在[l'absence du sujet]の場処を示すために隠喩を使い、詩的に表現した、《欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴[rond brûlé dans la brousse des pulsions]》(E666, 1960)と。すなわち《享楽の藪[la brousse de la jouissance]》である。 享楽のなかの場は空虚化(穴化)されている[où dans la jouissance une place est vidée]。この享楽の藪のなかの場は、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]が刻印されうる. (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008, 摘要訳) |
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ところで不幸にも穴は埋まらない。
穴埋めの対象a、この対象aは、人が自らを防衛できないものがある。密封しえない「ひとつの穴の穴埋め」である。ダナイデスの樽モデルの穴の穴埋めである。…それはヒト属における傷痕である。われわれはこの傷痕を去勢と呼ぶ。L'objet petit a bouchon, l'objet petit a, c'est l'objet petit a dont on ne peut pas se défendre qu'il est « bouche un trou » qui est infermable, qui bouche un trou du modèle tonneau des Danaïdes, …qu'il y a une malfaçon dans l'espèce humaine. On appelle ça la castration (J.-A. MILLER, Tout le monde est fou, 14/11/2007) |
ーーダナイデス、すなわち底のない樽を永遠に満たすように罰せられたダナオスの娘たち |
享楽はダナイデスの樽である。la jouissance, c'est « le tonneau des Danaïdes » (ラカン, S17, 11 Février 1970) |
したがって人間のコミュニケーションは、経済の交換と同様、無限の循環運動をするのである。 |
剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽喪失 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年) |