すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン, E848, 1966年) |
ラカンが言うように、欲動はすべて死の欲動ーー死への回帰運動ーーであるにせよ、ダイレクトに死に向かう運動としてよりもまず反復強迫を死の欲動の原点と見做したほうがよい。 |
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。 Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
この欲動とは基本的には「喪われた対象」を取り戻す運動であり、この喪われた対象の起源には「去勢された自己身体」がある。 反復強迫はより厳密に言えば「無意識のエスの反復強迫」であり、その動因はたとえば以下の用語群がある。 ーーこれらの語彙群は基本的にはすべて同じ内実を持っている(参照)。 |
この無意識のエスの反復強迫としての欲動は、身体的要求、つまり身体から湧き起こる駆り立てる力である。 |
エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章1939年) |
この身体的要求を「リビドー=欲動エネルギー」と呼んだり、「愛の欲動=性欲動」呼んだり、「エロスエネルギー」と呼んだりする。 |
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われわれは情動理論 [Affektivitätslehre]から得た欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドー[Libido]と呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。〔・・・〕プラトンのエロスは、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕この愛の欲動[Liebestriebe]を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動[ Sexualtriebe]と名づける。 (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要) |
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すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden(フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年) |
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おそらく人はまずここでつまずくだろう。欲動エネルギー=エロスエネルギーがなぜ死の欲動なのかと。これはフロイト自身、最後まではっきり言っていない。彷徨っている。愛の欲動が死の欲動であることを明示したのはラカンである。 |
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(表向きの言説ではなく)フロイトの別の言説が光を照射する。フロイトにとって、死は愛である。Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. (Lacan, L'Étourdit E475, 1970) |
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これだけでなく既にセミネールⅩⅠの「ラメラ神話」にてリビドーの目標が死であることを提示している。
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以上に見たように欲動つまりリビドーは究極的には死と結びついているが、生き続ける存在としての我々は、この死よりも反復強迫としての死の欲動への視点がいっそう重要である。 人はみな反復強迫している、その強度の多寡はあれ、身体の上に徴づけられた刻印を。フロイトはこの「不変の個性刻印」による反復を「トラウマへの固着と反復強迫」と呼んだ(参照)。 このトラウマへの固着が、現実界の審級にある原症状としてのサントームである。フロイトラカンにおけるトラウマは通念としての事故的トラウマよりももっと大きな意味合いをもっており、基本的には成人言語入場以前の幼児期における自我への傷であり些細な出来事でも不変の刻印となりうる。この傷はフロイトラカンにおいて心的装置に同化不能の身体的な残滓と表現されており、同化不能にもかかわらずそれを取り戻そうとするゆえに反復強迫が生じる。 ラカンにとってトラウマとは穴でもあり、フロイトの「トラウマへの固着」は「穴への固着」とも言い換えうる。 |
「人はみなトラウマ化されている。…この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
別の言い方をすれば、人にはみな女性の享楽がある(参照)。 |
享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。ラカンはこの身体の出来事を女性の享楽と同一のものとした。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […] de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,[…] elle est l'objet d'une fixation. […] Lacan… a pu dégager comme telle la jouissance féminine, (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
ーー享楽は身体の出来事とあるが、上に見たようにフロイトの定義上、「身体の出来事=トラウマへの固着」である。 そしてこの女性の享楽とは結局、男にも女にもある原症状としてのサントームの享楽である。とはいえこういったラカン語彙よりもフロイトの固着、この語が何よりも重要である。そもそもサントーム自体、フロイトの固着のことである(参照)。 文献をいくらか列挙しよう。 |
現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place » (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ーー参照) |
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享楽はまさに固着にある。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
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精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance 現実界のすべての定義は次の通り。常に同じ場処かつ象徴界外に現れるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため--であり、反復的でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なきものである。Toutes les définitions du réel s'y appliquent : toujours à la même place, hors symbolique, car identique à elle-même ; réitérable mais sans rapport de chaîne à d'autre Sa, (Colette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
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私は、一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. 〔・・・〕フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
享楽の一者の純粋な反復をラカンはサントームと呼んだ。la pure réitération de l'Un de jouissance que Lacan appelle sinthome, (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN - 30/03/2011) |
このようにラカニアンの注釈を列挙すると一般には難解に思われるだろうが、固着とはーー成人後のトラウマ的出来事への固着はあるにしろーー基本的には幼少の砌の髑髏に関わる。
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。 小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。 |
小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。 |
しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年) |
ーー《結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz;》 (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)
以上、質問を受けたので記した。