身体の実体は、《自ら享楽する身体》として定義される。Substance du corps, …qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ». (Lacan, S20, 19 Décembre 1972) |
|
自ら享楽する身体とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011) |
現代ラカン派では女性の享楽は男にも女にもある本来の享楽ーー自ら享楽する身体ーーとされるんだが、女性の享楽度は、やはり解剖学的女性のほうがはるかに高いに決まってる。
女性の享楽ゆえに性関係はない |
だから男女平等なんていう勝手な夢見てたらダメだ。そんなことしてたら男女の性のあいだの非対称性という「性関係はない」があからさまに露出してしまう。
男は、間違ってひとりの女に出会い、その女とともにあらゆることが起こる。つまり通常、「性交の成功が構成する失敗 」が起きる。L'homme, à se tromper, rencontre une femme, avec laquelle tout arrive : soit d'ordinaire ce ratage en quoi consiste la réussite de l'acte sexuel. (ラカン, テレヴィジョン, AE538, Noël 1973) |
|
我々は、無と本質的な関係性をもつ主体を女たちと呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」と関係をもつあり方は、(男に比べ)より本質的でより接近している。nous appelons femmes ces sujets qui ont une relation essentielle avec le rien. J'utilise cette expression avec prudence, car tout sujet, tel que le définit Lacan, a une relation avec le rien, mais, d'une certaine façon, ces sujets que sont les femmes ont une relation avec le rien plus essentielle, plus proche. (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997) |
要するに「無の享楽」度は解剖学的女のほうがはるかに高い。そんなことはむかしからみんなわかってることだ。この無の享楽は現在、「穴の享楽」「空虚の享楽」等と呼ぶ注釈者もいるが(参照)、ま、これは冥界機械ということだ。
女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる魂とは無関係だ。The female body is a chthonian machine, indifferent to the spirit who inhabits it. (カミール・パーリア Camille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年) |
|
だいたいある種の女がイクときのさまは「神のタタリ」と多くの男は感じているはずだ。
神の外立(タタリ) l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975) |
問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,(ラカン、S23、18 Novembre 1975) |
要するに女のタタリだ。 |
・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。 ・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。 ・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。 |
・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』) |
誤解のないように付け加えておくが、男たちもあの神のタタリ、無の享楽に戦慄しつつも魅惑されているのである。
三人目の女…私を好ませる女ーーくわばらくわばらーー、この女たちの猫撫で声は疑いもなく、猫の享楽[la jouissance du chat]だよ。それが喉から発せられるのか別の場所から来るのかは私には皆目わからないが。私が彼女たちを愛撫するときを思うと、それは身体全体から来ているように見える。 « Troisième ». [...] me favorise - touchons du bois - me favorise de ce que le ronron, c'est sans aucun doute la jouissance du chat. Que ça passe par son larynx ou ailleurs, moi j'en sais rien, quand je les caresse ça a l'air d'être de tout le corps, (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974) |
猫の享楽度が少ない女には敬意を払いつつも物足りなさを感じる。 |
一度気をやれば暫くはくすぐつたくてならぬといふ女あり。又二度三度とつゞけさまに気をやり、四度目五度目に及びし後はもう何が何だか分らず、無暗といきづめのやうな心持にて、骨身のくたくたになるまで男を放さぬ女もあり。男一遍行ふ間に、三度も四度も声を揚げて泣くやうな女ならでは面白からず。男もつい無理をして、明日のつかれも厭はず、入れた侭に蒸返し蒸返し、一番中腰のつゞかん限り泣かせ通しに泣かせてやる気にもなるぞかし。 (荷風『四畳半襖の下張』) |
もっとも配偶関係にある女の場合はまったく別である・・・
そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年) |
|