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2021年3月1日月曜日

マレビトがいる

 折口をしばらく読んでいたのだが、だんだんキモチワルクなってきた。神憑りのにおいがぷんぷんする。どうもいけない。


常世のまれびとの來臨(折口信夫『國文學の發生(第三稿)まれびとの意義』初出:「民俗 第四卷第二號」1929(昭和4年)年1月)



妣が国・常世


異者Fremdを「マレビト」に変えるという試みもいったん止す。マレビト連発文を読んでいたら言葉自体が陳腐になってきてしまった。


せっかくいくらか変更してみたので投稿するが、当面これで打ち止め。


私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねたマレビト[l'étranger]は、と自問したのだった。そのマレビトは、私自身だった、かつての少年の私だった。


je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」Le temps retrouvé (Deuxième partie)   )


偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。


Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!  


つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらくマレビトの国(異郷 der Fremde)にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。


Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年)




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マレビトがいる。…マレビトとは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

マレビトは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。そしてすべてのマレビトがこの条件を満たしているのはおそらく確からしい。Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist, und daß alles Unheimliche diese Bedingung erfüllt.(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしているマレビト[Fremdkörper]としての症状と呼んでいる。〔・・・〕このマレビトは内界にある自我の異郷部分である。


Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノのマレビト性の相 la dimension d'étrangeté de la chose   (Lacan, S18, 17 Février 1971)

マレビトは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

モノを 、フロイトはマレビトとも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

マレビトは母である。das Ding, qui est la mère (Lacan, S7 16 Décembre 1959)

現実界のなかのマレビト概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004➡︎[参照


私は欲動を翻訳して漂流、マレビトの漂流と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (Lacan, S20, 08 Mai 1973)

死への道は、マレビトと呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)



ひとりの女はマレビトである。 une femme …c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

問題となっているマレビトは神の別の名である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas (ラカン、S23、18 Novembre 1975)

マレビトのたたり l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)



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・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。


・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。


・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫「「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ」)


稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびとと言ひ、其屈折がまらひと・まらうどとなると言ふ風に考へて居るのが、従来の語原説である。近世風に見れば、適切なものと言はれる。併し古代人の持つて居た用語例は、此語原の含蓄を拡げなくては、釈かれない。〔・・・〕


まれびととは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。(大空から)或は海のあなたから、ある村に限つて富みと齢とその他若干の幸福とを齎して来るものと、その村々の人々が信じてゐた神の事なのである。此神は、空想に止らなかつた。古代の人々は、屋の戸を神の押ぶるおとづれと聞いた。おとづるなる動詞が訪問の意を持つ事になつたのは、本義音を立てるが、戸の音にのみ聯想が偏倚したからの事で、神の「ほと〳〵」と叩いて来臨を示した処から出たものと思ふ。戸を叩く事について深い信仰と、聯想とを持つて来た民間生活からおしてさう信じる。宮廷に於いてさへ、神来臨して門を叩く事実は、毎年くり返されて居た。

其神の常在る国を、大空に観じては高天原と言ひ、海のあなたと考へる村人は、常世の国と名づけて居た。〔・・・〕

常世は富み・齢・恋の国であると共に、魂の国であつた。人々の祖々の魂は常世の国に充ちてゐるものとした。〔・・・〕


常世からする神に対する感情は、寧「人」と言ふのが適してゐた。又、其が「人」のする事である事を知つて居たからかも知れない。我々の祖先は、之にまれびとと命けた。

(折口信夫「「とこよ」と「まれびと」と」1929年(昭和4年))