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2021年3月2日火曜日

どうだい、男性諸君?

男も女も「女」を語るとき、いったいどの女のことを言っているのか。私にはほとんどの人があまりにも漠然とそれを語っているように思う。


半年ほど前「女の身体の三区分」で「仕組まれた〈セクシュアリティ〉一黒木香論の地平から一」(村瀬ひろみ, 1996、pdf)を利用して、次のボロメオの環を提示した。





それぞれの環の重なりの読み方は次の通り。


ボロメオの環において、想像界の環は現実界の環を覆っている(支配しようとする)。象徴界の環は想像界の環を覆っている。だが象徴界自体は現実界の環に覆われている。これがラカンのトポロジー図の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)



村瀬ひろみさんの論は25年前のものであり、今から見れば、想像界、象徴界レベルの記述に置いてーーもちろん彼女はそんなラカン用語を使っておらず私がそう識別したという意味だがーー男の視線に囚われすぎているという人がいるかも知れないが、私にはとても優れたものに思える。



現在でも最低限こういった思考をすべきではないか。村瀬さんの現代版を作ったらいいのである。


ちなみにフロイトによる一世紀前版は次のもの。


ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。


そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)





この思考は現代ラカン派的観点では、ある程度まだ生きている。


破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)

〈大文字の母〉、それは基盤は「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou(Colette Soler « Humanisation ? », 2014)



もちろん女版だけでなく、男版も思考したらいい。たとえばフロイトにとって原父は、すべての女を独り占めしたい男だ。どうだい、男性諸君? 今だってそうだろ。


……………


この三つの環による思考は何も男女についてだけではない。たとえば柄谷はカントやマルクスに依拠しつつ次のような形の思考をしている。






上のは『トランスクリティーク』(2001)の段階だが、それ以前に「自己は共同体」と言っている。

誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)


とすれば、実にフロイト的であり、ラカンのボロメオの環をめぐって示していることとは厳密にはやや異なるが、こう置いてみることができる。




事実、柄谷はトラクリでカントの形式は言語だと言っている。ラカンにとってももちろん、《象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)