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2021年3月4日木曜日

おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか

 前回示したボロメオの環的思考法における「イマジネール・シンボリック・リアル」は厳密ではなくてよい、少なくとも手始めは。思考のモデルの一つとして利用すればよい。最も重要なのは、最低限三つの相(アスペクト)にて思考することだ。一般的にほとんどの人は問いを立てるとき、一つの相、よくて二つの相しか視野に入れていない。

たとえば私が好んできた吉本隆明の次の文がある。


おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)


ここでは二つ挙げられている、「難しく厳しく裁断する男」と「少女たちの甘心を買う男」。この文には明示されてはいないが、もう一つが暗示されている。


で、頭のなかでこう置いてみるわけだ。



このボロメオの環は、巷間の男たちの様相を種々の仕方にて当てはまることができる。たとえば表向きにはフェミを厳しく裁断する男には、モテたい男とヤリたい男が隠されている、と(もちろんこれは自らに向けても記している)。ま、ある意味で、女性の方々は「厳しく裁断する男」を笑いながら眺めたらよい相があり、事実、ある種の女性はアンチフェミ男に対して「余裕をもって」既にそうしている筈である(もっともこれ自体、きわめて単純化されたものであり、本来アンチフェミ男の多様な脳内思考を弁別しての分析必要性があるには相違ない)。


上の伝でいけば、女性はこう置けるかもしれない。




「誘惑女」というのは、名高い「女性の仮装」の言い換えである。「世話女」ーー世話女房ーーは現在ではいくらか古いかもしれない。現代的女性は別の言葉を考えてみることをおすすめする(たとえば「自立した女」等の言葉を思い浮かべる方々が多いのではないか。とはいえ自立女は孤独女になりがちである[参照])。「パックリ女」は、ラカン的なメドゥーサであり、穏やかに言えば(?)、フロイトの「母なる大地=沈黙の死の女神」である(参照)。


真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首の裂開的穴は貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante (ラカン、S4, 27 Février 1957)


このように最低限3区分だ。もちろんそれでは少ないという人もいる。


中井久夫は、あまり多過ぎてもダメだが人間の脳は7区分まではいけると言っている。ボロメオの環は重なり目も含めれば7区分ある。私はラカンが示しているのとはいくらか異なるが単純化して、こう置いてみることを好む。




それぞれのマテームの最も基本的な意味は次の通り。


Φは象徴的ファルスである。[Φ c'est le phallus symbolique]

ϕは想像的ファルスである。[ϕ c'est le phallus imaginaire.]

(Lacan, S8, 26  Avril  1961)

私は常に、一義的な仕方で、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ).     (ラカン、S11, 11 mars 1964)

女というものは空集合Øである[La femme c'est un ensemble vide ](ラカン, S22, 21 Janvier 1975)


空集合Øは女だけに関わらず、フロイトの自我分裂[Ichspaltung]、ーー身体的な欲動と心的なものに引き裂かれた主体ーー、つまりラカン的な斜線を引かれた主体$をも含意している、ーー《空虚としての主体の場自体が、主体を空集合と等置する。La place même du sujet comme vide, qui fait équivaloir le sujet à l'ensemble vide》 (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 28 JANVIER 1987)


象徴的ファルスの主要な意味は表象外の領域にあるエスの言語化(=ファルス化)ということである[参照]。


これらのマテームは、厳密にその内実を示しだせばとても長くなるのでここでは割愛するが、たとえば想像的ファルスは、フェティッシュとすることもできる。


女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ  (φ) を装う。[elle ne peut prendre le phallus que pour  ce qu'il n'est pas, c'est-à-dire : soit petit(a) , l'objet,  soit son trop petit (φ) ](ラカン 、S10, 5 Juin 1963)


あるいは想像的ファルスのポジションを理想自我に置き換えて読むこともできる。


理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す。[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le  moi-Idéal [ i'(a) ]   est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué  par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier l963)

自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)


この想像的ファルスは男と女では意味合いが異なる。ファルスを持つこと/ファルスであること[avoir le phallus / être le phallus]である。



それ以外にボロメオの環の中心ーーラカンは(a)と置いているーーは、実際は次の構造を持っている。



ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。われわれは(穴としての)対象aを去勢を含有しているものとして置く[Nous posons l'objet a en tant qu'il inclut (-φ) ](J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)



上のボロメオ中心図で示したのは、この意味での後期フロイト的去勢であり、前期フロイト的な女性のペニスの欠如や「おちんちんをちょん切っちゃうぞ」の類の想像的去勢とは異なり、両性に関わるリアルな去勢[la castration réelle]、さらに遡って出産外傷における原去勢[la castration originaire]である参照)。

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)