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2021年3月4日木曜日

女は不快だ

 蚊居肢子は、女たちが「女は」「女は」と言っているのを見ると不快に思うね


女が欲することは、神も欲する[Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut](ミュッセ Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)


神を不快に感じるタイプだからさ

そうでない男もいるだろうけどさ、


私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)

母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我の効果に結びついているものである。Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN (Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)


なんたって母なる女に支配されて生まれてきたんだからさ

母の乳房どころじゃないよ

母胎内から支配されっぱなしさ

あの全能の女に。


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant(ラカン、S4、06 Février 1957)

(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)

不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)


要するに女というものは不快さ

支配者が不快であるように。



一般的には神と呼ばれるものは超自我の作用である。c'est-à-dire ce qu'on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)

問題となっている「女というもの」は、「神の別の名」である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。Dieu, …dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  (ラカン、S23、16 Mars 1976)



このあたりのことがわかってない女が多いからさ

それがさらに不快を増幅させるね


歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)



1968年の学園紛争あたりから徐々に男性の諸神は蒸発しちまったんだからさ

1989年には最後の父「マルクス」も死んじまったよ

昔だったら許したよ、「女は」「女は」と言っても。

でもこの21世紀になってもまだ「女は」「女は」と言ってる女たちってのは

よっぽどニブイんじゃないかね

それともさらにいっそう男を支配したいんだろうか?



「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。


…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。


Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel :   […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?    (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)



社会の表層だけに囚われて男支配なんていまだ言ってたらダメさ


いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)


土台を問わないとね。

そうしたらすぐに見えてくる筈だがな


原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった。il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロランÉric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)