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2021年3月6日土曜日

マゾヒズムとサディズムは紙一重である

  

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)


《自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である》とは、「マゾヒズムとサディズムは紙一重である」ということである。これは、いまだもって多くの「マゾヒズム /サディズム」の把握の原点になっているように見えるドゥルーズのマゾッホ論の内容とは大きく異なるが(参照)、この中井久夫の観点がフロイトラカンの観点でもある。


ラカンはマルキ・ド・サド自身、その根はマゾヒストだと言っている(参照)。これはなにもラカン特有の視点ではなく、かつてからのサド読みには同様のことを言っている人がいるようだ。たとえばジャン・ポーラン Jean Paulhan は、《ジュスティーヌはサドだ[Justine c'est Sade]》、《ジュスティーヌの秘密は、サドのマゾヒズム だ[Le secret de Justine , c ' est le masochisme de Sade]》等々と言ってる。



話を戻そう。フロイトは当初はサディズムがマゾヒズムに先行するものと考えていた。だが1920年の『快原理の彼岸』を契機に徐々に移行があり、1933年に決定的な叙述がある。


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に居残ったままでありうる。


Masochismus […] für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. […] daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!


es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


1924年のマゾヒズム 論にはまだいくらか曖昧さがあるが、上の1933年の記述とともに読めば、ここに原欲動としての原マゾヒズムの示唆が十全にある。


もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動ーー原サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。Wenn man sich über einige Ungenauigkeit hinaussetzen will, kann man sagen, der im Organismus wirkende Todestrieb –; der Ursadismus –; sei mit dem Masochismus identisch. 



その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残滓として内部には本来の性愛的マゾヒズムが残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。Nachdem sein Hauptanteil nach außen auf die Objekte verlegt worden ist, verbleibt als sein Residuum im Inneren der eigentliche, erogene Masochismus, der einerseits eine Komponente der Libido geworden ist, anderseits noch immer das eigene Wesen zum Objekt hat. 


ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。So wäre dieser Masochismus ein Zeuge und Überrest jener Bildungsphase, in der die für das Leben so wichtige Legierung von Todestrieb und Eros geschah. 



ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動がふたたび取り入れられ内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行すると聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズムが生み出され、原マゾヒズムに合流する。


Wir werden nicht erstaunt sein zu hören, daß unter bestimmten Verhältnissen der nach außen gewendete, projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb wieder introjiziert, nach innen gewendet werden kann, solcherart in seine frühere Situation regrediert. Er ergibt dann den sekundären Masochismus, der sich zum ursprünglichen hinzuaddiert. (フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


1924年と1933年の叙述をまとめれば、次のように図示できる。





この原マゾヒズムがラカンの本来の享楽である。


私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産![misérables avortons de philosophie!]我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣[habits qui se morcellent ]を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 [façon de batifoler]以外の何ものでもない。〔・・・〕


真理についての唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能、享楽という原マゾヒズムである[cette question qui est la seule, sur la vérité et ce qui s'appelle - et que FREUD a nommée - l'instinct de mort, le masochisme primordial de la jouissance],〔・・・〕全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている[Toute la parole philosophique foire et se dérobe]。(ラカン、S13、June 8, 1966)


死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである。 la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)




原欲動としての原マゾヒズム=享楽とは、結局なにか? 


リビドーと死の欲動の混淆である。


ラカンの観点では、マゾヒズム は人に広く行き渡っている。マゾヒズムはリビドーと死の欲動の結合に関与していると言いうる。dans la perspective de Lacan, il y a une prévalence du masochisme, dont on peut dire qu'elle est impliquée par l'unification de la libido et de la pulsion de mort. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 3 MAI 1989)

享楽という語は、二つの満足ーーリビドーの満足と死の欲動の満足ーーの価値をもつ一つの語である。Le mot de jouissance est le seul qui vaut pour ces deux satisfactions, celle de la libido et celle de la pulsion de mort. (Jacques-Alain Miller , L'OBJET JOUISSANCE , 2016/3 )


リビドーとは愛の欲動である。


われわれは情動理論 [Affektivitätslehre]から得た欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドー[Libido]と呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。〔・・・〕プラトンのエロスは、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕この愛の欲動[Liebestriebe]を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動[ Sexualtriebe]と名づける。 (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)


したがって原マゾヒズムとしての享楽は、愛の欲動と死の欲動の混淆となる。




別の言い方をすれば、究極の愛とは、生きている存在には不可能な他者との絶対的融合であり、死は愛である(参照)。


この愛の欲動と死の欲動の混淆(マゾヒズム)に対する防衛として他者破壊(サディズム)がある。


ここでもう一度、冒頭の中井久夫に戻ろう。


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。〔・・・〕私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)


現在の人は自分たちの中の破壊性を手なずけるために、インターネットの書き込みをしているのではないか。ーーこれは私もまったく例外ではないが、特にツイッターでの書き込みにて、日々「他者破壊」に励んでいる方々は、自分の内部にあるメカニズムに時には注視することをおすすめする。