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2021年3月7日日曜日

マゾヒズムの中間ヴァージョン

 


マゾヒズムは前回見たように究極的には死の欲動である。


マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドー はそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)


とはいえ健康ヴァージョンだってある。


他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である[que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. ](ラカン, S10, 16 janvier 1963)


このラカンの定義を額面通りとれば、他者の欲望の対象になったことは、この蚊居肢子にだってある・・・タシカトッテモムカシ・・・そもそも乳幼児ならみなマゾヒストである。


成人になっても美女ならみなマゾヒストではなかろうか。美女でなくたって女はかなりの割合でそうでありうる。


女性のマゾヒズムの秘密は、被愛妄想である。Le secret du masochisme féminin est l'érotomanie(J.-A. Miller, L'os d'une cure, Navarin, 2018)


芸能人なら男女ともマゾヒストではなかろうか。政治家だって、医者だって、教師だって、そうでありうる・・・


マゾヒズムには大きく二つのヴァージョンがあるのである。


ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰なアタッチメントを示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (エリック・ロランÉric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)



もっとも自傷行為までいかずにも、中間ヴァージョンとして「ちょっとだけ縛って」のたぐいもあるでしょう。


露わになった腋窩に彼が唇をおし当てたとき、京子は嗄れた声で、叫ぶように言った。

「縛って」

その声が、彼をかえって冷静に戻した。

「やはり、その趣味があるのか」

京子は烈しく首を左右に振りながら、言った。

「腕を、ちょっとだけ縛って」

畳の上に、脱ぎ捨てた寝衣があり、その傍に寝衣の紐が二本、うねうねと横たわっている。

京子の両腕は一層強力な搾木となる、頭部を両側から挟み付けた。京子は、呻き声を発したが、それが苦痛のためか歓喜のためか、判別がつかない。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)


このあたりはとっても微妙なところです、マゾヒズムとしての享楽、その享楽の意志がほどほどのところで止まりうるかどうかは。ーー《基本的に、すべての有機的生において、苦痛への意志がある。Es giebt einen Willen zum Leiden im Grunde alles organischen Lebens  》(ニーチェ「力への意志」26[275]  遺稿、1882 - Frühjahr 1887)



享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。

Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. . (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)


ニーチェは女に縛ってと頼まれたことがあったのでしょうか。それとも縛られたり鞭打たれたりしたかったタイプだったのでしょうか、サロメに鞭を持たせてポーズをとらせたニーチェ自らによる演出写真がありますが。


性的悦と自傷行為は近似した欲動である。Wollust und Selbstverstümmelung sind nachbarliche Triebe. (ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)

苦痛と悦は力への意志と関係する。Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  (ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)


回を重ねるとエスカレートすることをご存知だったのでせうか。


すべての快において、苦痛が含まれている。もし快がきわめて大きいものなら、苦痛はとても長期にわたるものに違いない。in aller Lust ist Schmerz einbegriffen. - Wenn die Lust sehr groß werden soll, müssen die Schmerzen sehr lange,(ニーチェ「力への意志」35[15] 遺稿、1882 - Frühjahr 1887)


みなさん、中間ヴァージョンだと思って気を許すと泥沼に嵌まり込む場合がありますからオキヲツケヲ!


ある夜、あんまり女がうるさく邪魔をするので、私は彼女をおさえつけ馬乗りになって、ありあわせのシャツやネクタイやで女の手脚をかなり強く縛った。女は、それに異常なほどの興奮で反応した。肩を振りこまかく喘ぎながら目が据わって、丸太棒のように蒲団をころげながら、女はシーツにおどろくほどのしみをつくったのだ。〔・・・〕


煙草をつけて背後の女を振りかえった。……「ほどく?」と私は訊ねた。が、女は目で微笑するとゆっくりと首を振った。〔・・・〕私は何気なく女の目に笑いかけた。女も私を見て笑い、その目と目とのごく自然な、幸福な結びつきに、突然、私は自分がいま、狂人の幸福を彼女とわかちもっているのをみた。(山川方夫『愛のごとく』)