現代ラカン派においてはそれなりの頻度で使われる「享楽の意志」という表現だが、ラカン自身はそれほど何度も使っているわけではない。1963年の不安セミネールでの発言と、同じ1963年に書かれた「カントとサド」以外には、この表現の使用は私の記憶する限りなかったように思う。 |
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(マルキ・ド・サドの)享楽の意志は、モントルイユ夫人(義母)によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。la volonté de jouissance ne laisse plus contester sa nature de passer dans la contrainte morale exercée implacablement par la Présidente de Montreuil(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963) |
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ラカンの享楽とは基本的にマゾヒズムのことである。 |
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享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969) |
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享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。 la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
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したがって享楽の意志とは「マゾヒズムの意志 la volonté de masochism」とすることができる。 フロイトにおけるマゾヒズムの定義は、最終的には「自己破壊=死の欲動」だが、それ以外に、苦痛のなかの快[Schmerzlust]、あるいは女性的受動的[weiblich passiv]ともしている。 当面、「享楽の意志=マゾヒズムの意志=自己破壊の意志=苦痛のなかの快の意志=受動性の意志」としておこう。 なお、いまだもって学者たちを中心に誤読されているニーチェの「力への意志」の真の内実は「マゾヒズムの意志」であるのは、精神の貴族階級である方なら既によくご存知だろう。もっともこも21世紀に貴族階級であることは甚だ困難であり、であるなら蚊居肢子の如く精神の下層階級を目指すことをおすすめする。
さて話を戻そう。「享楽の意志」の定義としては、不安セミネールの次の文に如くものはない。 |
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大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance… 問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ? […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse… この不安がマゾヒストの盲目的目標なら、ーー盲目というのはマゾヒストの幻想はそれを隠蔽しているからだがーー、それにも拘らず、われわれはこれを神の不安と呼びうる。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, car son fantasme la lui masque, elle n'en est pas moins, réellement, ce que nous pourrions appeler l'angoisse de Dieu. (ラカン, S10, 6 Mars 1963) |
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二者関係とある。原二者関係は母子関係であり、ここでの「大他者の享楽」の大他者は原大他者だと捉えうる。 |
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全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif… c'est l'Autre qui est tout-puissant(ラカン、S4、06 Février 1957) |
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つまり《大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である》とは「母の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である」としうる。 |
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他にも、マゾヒストの盲目的目標の不安は《神の不安 l'angoisse de Dieu》とある。この神とは何だろうか? |
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超自我はマゾヒズムの原因である。le surmoi est la cause du masochisme,(Lacan, S10, 16 janvier 1963) |
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一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970) |
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神の不安とは、超自我の不安である。乳幼児のほとんどみながもつ「依存」の対象としての母なる超自我の不安である。つまりは《きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin. 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)ーーこのわたしの恐ろしい女主人の不安である。 |
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母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 [surmoi primordial]の効果に結びついているものである。…最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、…母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958) |
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上の1958年のセミネールⅤの発言に「依存」とあるのに注意しながら、次の1970年のセミネールⅩⅦの発言を読もう。 |
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(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et : - mère qui dit, - mère à qui l'on demande, - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme. La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970) |
さて原支配者としての母なる女の不安とは具体的には何だろうか。 |
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フロイトは「依存」という言葉を使いながらこう書いている。 |
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母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽[Keim der späteren Paranoia] が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安[Angst]は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年) |
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「貪り喰われるaufgefressen」という表現は、ラカンも使っている。 |
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メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957) |
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セミネールⅩⅦに現れる「鰐の口」の話はこの変奏である。 |
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母の溺愛 [« béguin » de la mère]…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか? 母は巨大な鰐 [Un grand crocodile ]のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす[le refermer son clapet ]かもしれないことを。これが母の欲望 [le désir de la mère ]である。(ラカン, S17, 11 Mars 1970) |
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母の欲望とは、幼児側から見れば、母の享楽である。 |
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父の名は母の欲望を隠喩化する。この母の欲望は、享楽の名のひとつである。この享楽は禁止されなければならない。我々はこの拒絶を「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。二つは同じである。 Le nom du père métaphorise le désir de la mère […] ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance. […] jouissance est interdite […] on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011) |
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排除とは外に投げ出すということであり、外立とは外に投げ出されたものはタタル(回帰する)ということである。ーー《神のタタリ[ l'ex-sistence de Dieu] 》(Lacan, S22, 08 Avril 1975)、《享楽はタタル[la jouissance ex-siste]》 (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
享楽とはラカンの定義上、穴もしくはトラウマでもあり、これが次の文でソレールの言っている「母=原穴の名」である。 |
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〈大文字の母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(Colette Soler, Humanisation ? , 2014) |
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母の穴はタタルのである。神の不安は穴の不安であり、穴に吸い込まれる不安である。 ラカンの穴のマテームはダイレクトにはȺだが、人は表象しか感知できないという意味では、事実上、穴の境界表象S(Ⱥ)である。 |
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ラカンは穴をS(Ⱥ)と記述した。un trou, qu'il a inscrit S de grand A barré (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001) |
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あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997) |
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なぜ人はヴァギナデンタータに吸い込まれたいのだろうか。なぜ人はブラックホールのなかに消滅したいのだろうか。 |
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ソンナノイヤダイ! |
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ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958) |
ジイドだってイヤがっていた。そもそもジイドはあの穴が怖くて狭き門のほうに逃げたのである、ーー《幸福に至る門は狭い。狭き門より力を尽くして入れ!》
皆さんもあのブラックホールに吸い込まれるのはきっとイヤでしょう。
ところで、ブラックホールのマテームS(Ⱥ)は、超自我のマテーム、欲動のマテームと同じである。
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる。S(Ⱥ) […] on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. (J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96) |
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S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである。S de grand A barré [ S(Ⱥ)]ーー ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne (J.-A, Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001) |
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したがってミレールは、《死の欲動は超自我の欲動[la pulsion de mort ... c'est la pulsion du surmoi]》 (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)とも言う。 結局、エスの欲動である。人はみな自我レベルではブラックホールのなかに消滅するのはイヤである。だが超自我とはエスの代理人であり、エスは何を求めているのか自我にはわからない。とはいえ自我もふとエスの意志、エスの代理人の意志にしたがってしまうことがある。
つまり人にはヴァギナデンタータに貪り喰われたい無意識のエスの身体的な欲動がある、男性だけならまだわからないでもないが(?)、女性にも同様にある、ウロボロスのようにして、というのがフロイトラカンの究極の思考である。 ニーチェの永遠回帰自体、おそらくウロボロスが起源であるだろう(参照) ーー「純粋な者たち」よ、神の仮面(神の幼虫 Gottes Larve)が、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロス greulicher Ringelwurm)がいる。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」1884年)
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