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2021年3月7日日曜日

マゾヒズムの意志

 


現代ラカン派においてはそれなりの頻度で使われる「享楽の意志」という表現だが、ラカン自身はそれほど何度も使っているわけではない。1963年の不安セミネールでの発言と、同じ1963年に書かれた「カントとサド」以外には、この表現の使用は私の記憶する限りなかったように思う。


(マルキ・ド・サドの)享楽の意志は、モントルイユ夫人(義母)によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。la volonté de jouissance ne laisse plus contester sa nature de passer dans la contrainte morale exercée implacablement par la Présidente de Montreuil(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)


ラカンの享楽とは基本的にマゾヒズムのことである。


享楽はその基盤においてマゾヒズム的である。La jouissance est masochiste dans son fond(ラカン、S16, 15 Janvier 1969)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。 la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert (Lacan, S23, 10 Février 1976)


したがって享楽の意志とは「マゾヒズムの意志 la volonté de masochism」とすることができる。


フロイトにおけるマゾヒズムの定義は、最終的には「自己破壊=死の欲動」だが、それ以外に、苦痛のなかの快[Schmerzlust]、あるいは女性的受動的[weiblich passiv]ともしている。


当面、「享楽の意志=マゾヒズムの意志=自己破壊の意志=苦痛のなかの快の意志=受動性の意志」としておこう。


なお、いまだもって学者たちを中心に誤読されているニーチェの「力への意志」の真の内実は「マゾヒズムの意志」であるのは、精神の貴族階級である方なら既によくご存知だろう。もっともこも21世紀に貴族階級であることは甚だ困難であり、であるなら蚊居肢子の如く精神の下層階級を目指すことをおすすめする。


苦痛と悦は力への意志と関係する。Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  (ニーチェ「力への意志」遺稿1882 - Frühjahr 1887)

苦痛のなかの快[Schmerzlust]は、マゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)

フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)



現代日本にはほとんど精神の中流階級しかいなくなってしまって、心理学においても、せいぜい自我心理学かそれに毛が生えた程度に止まっているという不幸がある。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)

これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕


心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)


最もタチの悪いのは精神の中流階級である。つまりは「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄「菊池寛」)であり、ここに浅薄な誤解誤読が猖獗する。


浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)



さて話を戻そう。「享楽の意志」の定義としては、不安セミネールの次の文に如くものはない。


大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance…


問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ、二者関係に見出しうる。その関係における不安…Où est cet Autre dont il s'agit ?    […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…


この不安がマゾヒストの盲目的目標なら、ーー盲目というのはマゾヒストの幻想はそれを隠蔽しているからだがーー、それにも拘らず、われわれはこれを神の不安と呼びうる。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, car son fantasme la lui masque, elle n'en est pas moins, réellement, ce que nous pourrions appeler l'angoisse de Dieu. (ラカン, S10, 6 Mars 1963)


二者関係とある。原二者関係は母子関係であり、ここでの「大他者の享楽」の大他者は原大他者だと捉えうる。


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である。la structure de l'omnipotence, […]est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant(ラカン、S4、06 Février 1957)


つまり《大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である》とは「母の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である」としうる。


他にも、マゾヒストの盲目的目標の不安は《神の不安 l'angoisse de Dieu》とある。この神とは何だろうか?


超自我はマゾヒズムの原因である。le surmoi est la cause du masochisme,(Lacan, S10, 16  janvier  1963)

一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970)


神の不安とは、超自我の不安である。乳幼児のほとんどみながもつ「依存」の対象としての母なる超自我の不安である。つまりは《きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin.  》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)ーーこのわたしの恐ろしい女主人の不安である。


母なる超自我・太古の超自我、この超自我は、メラニー・クラインが語る原超自我 [surmoi primordial]の効果に結びついているものである。…最初の他者の水準において、ーーそれが最初の要求[demandes]の単純な支えである限りであるがーー私は言おう、幼児の欲求[besoin]の最初の漠然とした分節化、その水準における最初の欲求不満[frustrations]において、…母なる超自我に属する全ては、この母への依存[dépendance]の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)


上の1958年のセミネールⅤの発言に「依存」とあるのに注意しながら、次の1970年のセミネールⅩⅦの発言を読もう。


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)




さて原支配者としての母なる女の不安とは具体的には何だろうか。

フロイトは「依存」という言葉を使いながらこう書いている。


母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽[Keim der späteren Paranoia] が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安[Angst]は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)


「貪り喰われるaufgefressen」という表現は、ラカンも使っている。


メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957)


セミネールⅩⅦに現れる「鰐の口」の話はこの変奏である。


母の溺愛 [« béguin » de la mère]…これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の溺愛」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?


母は巨大な鰐 [Un grand crocodile ]のようなものだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざす[le refermer son clapet ]かもしれないことを。これが母の欲望 [le désir de la mère ]である。(ラカン, S17, 11 Mars 1970)


母の欲望とは、幼児側から見れば、母の享楽である。


父の名は母の欲望を隠喩化する。この母の欲望は、享楽の名のひとつである。この享楽は禁止されなければならない。我々はこの拒絶を「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。二つは同じである。


Le nom du père métaphorise le désir de la mère […] ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance. […] jouissance est interdite […] on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)


排除とは外に投げ出すということであり、外立とは外に投げ出されたものはタタル(回帰する)ということである。ーー《神のタタリ l'ex-sistence de Dieu] 》(Lacan, S22, 08 Avril 1975)、《享楽はタタル[la jouissance ex-siste]》 (Lacan, S22, 17 Décembre 1974


問題となっている女というものは神の別の名である。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu,(Lacan, S23, 18 Novembre 1975)



享楽とはラカンの定義上、穴もしくはトラウマでもあり、これが次の文でソレールの言っている「母=原穴の名」である。


〈大文字の母〉、その底にあるのは、「原リアルの名」である。それは、「母の欲望」であり、「原穴の名  」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(Colette Soler, Humanisation ? , 2014)


母の穴はタタルのである。神の不安は穴の不安であり、穴に吸い込まれる不安である。


ラカンの穴のマテームはダイレクトにはȺだが、人は表象しか感知できないという意味では、事実上、穴の境界表象S(Ⱥ)である。


ラカンは穴をS(Ⱥ)と記述した。un trou, qu'il a inscrit S de grand A barré (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001) 

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)


なぜ人はヴァギナデンタータに吸い込まれたいのだろうか。なぜ人はブラックホールのなかに消滅したいのだろうか。

ソンナノイヤダイ!


ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)



ジイドだってイヤがっていた。そもそもジイドはあの穴が怖くて狭き門のほうに逃げたのである、ーー《幸福に至る門は狭い。狭き門より力を尽くして入れ!》


皆さんもあのブラックホールに吸い込まれるのはきっとイヤでしょう。



ところで、ブラックホールのマテームS(Ⱥ)は、超自我のマテーム、欲動のマテームと同じである。


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる。S(Ⱥ) […] on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. (J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである。S de grand A barré [ S(Ⱥ)]ーー ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne (J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)


したがってミレールは、《死の欲動は超自我の欲動[la pulsion de mort ... c'est la pulsion du surmoi]》  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)とも言う。


結局、エスの欲動である。人はみな自我レベルではブラックホールのなかに消滅するのはイヤである。だが超自我とはエスの代理人であり、エスは何を求めているのか自我にはわからない。とはいえ自我もふとエスの意志、エスの代理人の意志にしたがってしまうことがある。


自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


要するに母の意志、モノとしての母なる穴の意志に。


フロイトによるエスの用語の定式、(この自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。私はこのエスの確かな参照領域をモノ[la Chose ]と呼んでいる。…à FREUD en formant le terme de das Es. Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …c'est que ce Es …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. (ラカン, S7, 03  Février  1960)



つまり人にはヴァギナデンタータに貪り喰われたい無意識のエスの身体的な欲動がある、男性だけならまだわからないでもないが(?)、女性にも同様にある、ウロボロスのようにして、というのがフロイトラカンの究極の思考である。




ニーチェの永遠回帰自体、おそらくウロボロスが起源であるだろう(参照


ーー「純粋な者たち」よ、神の仮面(神の幼虫 Gottes Larve)が、お前たちの前にぶら下っている。神の仮面のなかにお前たちの恐ろしいとぐろを巻く蛇(恐ろしいウロボロス greulicher Ringelwurm)がいる。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「無垢な認識」1884年)



フロイトの観点では、享楽と不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve.]としてある。


欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)


《不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse]》ーーこの不快がラカンの享楽だが、不安に置き換えてもいいのである、フロイト自身、たとえば次のように等置している、《不快(不安)の解除[ Unlust-(Angst)-Entbindung.]》(『制止、症状、不安』第2章、1926年)


モノの索引とあるのは、《モノは母である。das Ding, qui est la mère》 (ラカン, S7, 16 Décembre 1959)、つまりは母の穴に吸い込まれたいという絶え間なき執拗なマゾヒズムの意志にかかわる。これこそ究極の自己破壊欲動=死の欲動に他ならない。


死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. (ラカン、S17、26 Novembre 1969)



結局、原マゾヒズムの意志とは自己身体の享楽[参照] (自体性愛的欲動=原ナルシシズムリビドー)と同じように、「喪われた自己身体=母の身体」を取り戻そうとする欲動であり、ここに原マゾヒズム的享楽と原ナルシシズム的リビドーの一致がある。これは前回引用したミレールのセミネールでのエリック・ロランの発言、マゾヒズムの病理ヴァージョンは《「母への固着fixation sur la mère」  「自己身体への固着fixation sur le corps propre.」だ》を受け入れるなら、必ずそうなる。


享楽の対象としてのモノとは母というが、より厳密には母の身体である。そして根源的なマゾヒストの不安とは母の身体からの分離である。


不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章)


ラカンの穴ーー享楽の穴ーーはトラウマと等価であることを念頭に置きつつ次の文を読もう。


(乳幼児が)母を見失うというトラウマ的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter 〔・・・〕この見失った対象(喪われた対象)への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ。Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle (フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


《喪われた対象 verlorenen Objekts》 とあるが、ここにラカンの対象aの起源がある。



自体性愛の対象は実際は、空洞、空虚の現前以外の何ものでもない。〔・・・〕そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象aの形態をとる。この永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である。autoérotisme […] Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide……et dont nous ne connaissons l'instance que sous  la forme de la fonction de l'objet perdu (a), […] l'origine[…] il est à contourner cet objet éternellement manquant. (ラカン、S11, 13 Mai 1964)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

対象aは、大他者自体の水準において示されるである。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

享楽はとして示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)



結局、原マゾヒズムであれ原ナルシシズムであれ、この二つの原欲動は、以前の状態に戻ろうとする身体的要求であり、究極の以前の状態は母胎である。



以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)