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2021年3月8日月曜日

ヴァギナデンタータ

前回引用したポール・バーハウのヴァギナデンタータ。


あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)



これはラカンマテームを使っているのだからもちろんラカンに依拠しているには相違ない。


S(Ⱥ) にて示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない。たしかにこの理由で、私は指摘するが、神はいまだ退出していないのだ。S(Ⱥ) je n'en désigne  rien d'autre que la jouissance de LȺ Femme, c'est bien assurément parce que c'est là que je pointe que Dieu n'a pas encore fait son exit. (ラカン, S20, 13 Mars 1973)

大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。


il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  (ラカン、S23、16 Mars 1976)



ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)



ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)




とはいえ当時のポール・バーハウはカミール・パーリアの『性のペルソナ』にも大きく影響を受けている。


どの女も深淵を開く。男はその深淵のなかに落ちることを恐れ/欲望する。カミール・パーリアは、この関係性を『性のペルソナ』で最も簡潔に形式化した。米国ポリティカルコレクトネスのフェミニスト文化内部の爆弾のようにして。パーリア曰く、性は男が常に負ける闘争である。しかし男は絶えまなくこの競技に入場する、内的衝迫に促されて。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Love in a Time of Loneliness、1998年)



パーリアの次の箇所は決定的だ。


宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。〔・・・〕

社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。〔・・・〕


自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)



バーハウは次のような形でもヴァギナデンタータという語を使っている。


何が起こるだろう、ごく標準的の男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろう。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出す。すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されている、さらには虐待されて物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らす。男たちは、女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム「ニンフォマニア(色情狂)」まで創り出している。これは究極的にはヴァギナデンタータ Vagina dentata の神話の言い換えである。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE , 1998)




カーミル・パーリアに戻って短く的確な文を二つ引用しよう。


男たちは自らが性的流刑の身であることを知っている。彼らは満足を求めて彷徨っている、渇望しつつ軽蔑しつつ決して満たされてない。そこには女たちが羨望するようなものは何もない。(カーミル・パーリア Camille Paglia「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

どの男も、母によって支配された内密の女性的領域を隠している。そこから男は決して完全には自由になりえない。(カミール・パーリア『性のペルソナ』1990年)



ーーこの二文は明らかにフロイトに依拠した記述である。



フロイトを研究しないで性理論を構築しようとするフェミニストたちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである。Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies(Camille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992)




次に参考としてミレールのラカン不安セミネール注釈を掲げておこう。



不安セミネール10(1962ー1963)において、le moins phi (– φ)は、もはや想像的去勢・象徴的去勢 castration imaginaro-symboliqueではない。そうではなく器官の(– φ)[le -φ de l'organe]である。…(– φ)は事実上、もはや去勢のシンボル symbole de la castrationではない。そうではなく男性器官 organe mâle の肉体的属性 propriété anatomique である。そしてこの男性器官は、力能の想像化 imaginarisation de puissance とはまったく相反する。なぜなら享楽の瞬間 moment de sa jouissance に、この男性器官を襲う萎縮 détumescence があるから。…


フロイトの真理 vérité de Freud において、去勢 castrationは、女性のペニス不在 absence de pénis de la femme の把握に基盤がある。対象関係論(セミネール4)のラカンは、この分析的ドクサ doxa analytique に則って、想像的レヴェルでの「女性にとっての劣等感 sentiment d'infériorité chez la femme」を語った。…


以前のラカンはこのように、象徴的弁証法においてdans la dialectique symbolique、女性はマイナスサインを以て入場する la femme entre avec le signe moins とした。なぜなら対象の欠如は、徴示化されるファルス phallus signifiantisé 、ファルス的象徴対象 objet symbolique phalliqueだから。だがセミネール10「不安」以降、それはまったく異なるのである。…


このセミネールで、あなた方は、かつての構築物への「偉大なるボロ切れ化ショット grand coup de chiffon」を見るだろう。「剥奪 privation」、「フリュストラシオンfrustration」、「去勢 castration」、「想像的ファルスと象徴的ファルス phallus imaginaire et symbolique」を基盤としたすべての構築物を拭い去る「ひと突き」である。…「女は何も欠けていない La femme ne manque de rien」、ラカンは強調する、「それは明らかだ ça saute aux yeux 」と。…


最初の転倒がある。享楽への道 le chemin de la jouissance において、困惑させられる embarrassé のは男である。男は選別されて去勢に遭遇する rencontre électivement – φ。勃起萎縮 détumescenceである。…われわれが性行為のレベルで物事を考えるなら、道具器官の消滅 disparition de l'organe instrument を扱うなら、ラカンが証明していることは、以前の教えとはまったく逆に、欲望と享楽に関して、当惑・困窮するのは男性主体 sujet mâleである。


そしてここに始まる、ラカンによる女性性賛歌 éloge de la féminité が。女性の劣等性 infériorité ではなく優越性 supériorité である。…享楽に関して、性交の快楽に関して、女性主体は何も喪わない le sujet féminin ne perd rien。…


ラカンはティレシアスの神話 mythe de Tirésiasに援助を求めている。それは享楽のレベルでの女性に優越性 la supériorité féminine を示している。…


不安セミネール10にて、かてつ分析ドクサだったもの全ての、際立ったどんでん返しがある。欠如するのは男 homme qui manqueなのである。というのは、性交において、男は器官を持ち出し、去勢を見出す il apporte l'organe et se retrouve avec – φ から。男は賭けをする。そして負けるのは男である Il apporte la mise, et c'est lui qui la perd。…ラカンは、性交によっても、女は無傷のまま、元のまま restant intacte, intouchéeであることを示している。(Jacques-Alain Miller, INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 2004年)



ま、三十歳前後まではこういった心境を抱く男は少ないのかもしれないけど、四十過ぎになればかなりの割合の男がーーパートナーによるとはいえーー抱くようになるんじゃないかな・・・


ジャコメッティがこれ作った時はまだ29歳だな、


Giacometti, boule suspendue, 1930




娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)



これは1950年だ。






もしわれわれが心的インポテンツ[psychischen Impotenz]概念の拡大ではなく、症候学に注意を払うなら、現在の文明化された世界の男たちの愛の習性[Liebesverhalten des Mannes]は、全体的にみて心的インポテンツの刻印が負わされている。教育ある人々のあいだでは、情愛と官能[ die zärtliche und die sinnliche Strömung] の流れが合流しているケースはごくわずかである。


男はほとんど常に、女性への敬愛[Respekt vor dem Weibe]を通しての性行動[sexuellen Betätigung]に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象[erniedrigtes Sexualobjekt] に対してのみ十全なポテンツを発揮する。(フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)




男なんざ光線とかいふもんだ

蜂が風みたいなものだ 


ーー西脇順三郎「旅人かへらず」より



原始的淋しさは存在という情念から来る。

Tristis post Coitumの類で原始的だ。

孤独、絶望、は根本的なパンセだ。

生命の根本的情念である。

またこれは美の情念でもある。


ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より



性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier(ラテン語格言、ギリシャ人医師兼哲学者Galen)







こう言うと奇妙にきこえるかもしれないが、性欲動の本性そのもののなかに、その完全な満足達成を阻もうとするような何かがふくまれている、と私は考えている。Ich glaube, man müßte sich, so befremdend es auch klingt, mit der Möglichkeit beschäftigen, daß etwas in der Natur des Sexualtriebes selbst dem Zustandekommen der vollen Befriedigung nicht günstig ist. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』1912)







ジャコメッティは若き時代、毎夜眠りにつく前に、自分が二人の男を殺し、二人の女をレイプして殺害することを想像した。(James Lord、Giacometti portraitより)