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2021年3月17日水曜日

で、どうしたいんねん、日本のフェミニストたちは?


かつてはフェミニスト運動のエポックメーキングな書とされたジャーメイン・グリア 『去勢された女』だが、その第1章の最後には次のパラグラフがある。


女性の参政権の反対者は、女性解放運動が意味するのは、結婚の終焉、道徳と国家の終焉だと嘆いた。彼らの極論は、リベラルやヒューマニストよりもはるかに目が効いていた。後者は、女たちに自由の手段を与えても何もひっくり返えらないと考えたのだから。わたしたちが、望まれない参政権のタネが蒔かれたその収穫を刈り取るとき、アンチフェミニストたちは結局正しかったことを見るだろう。


The opponents of female suffrage lamented that woman's emancipation would mean the end of marriage, morality and the state; their extremism was more clear-sighted than the woolly benevolence of liberals and humanists, who thought that giving women a measure of freedom would not upset anything. When we reap the harvest which the unwitting suffragettes sowed we shall see that the anti-feminists were after all right. (ジャーメイン・グリア Germaine Greer 『去勢された女(The Female Eunuch)』1970年)


ジャーメイン・グリアは最近になってフェミニストたちにとっても評判のよくないことを言っているが、この1970年の書のこの箇所の記述はおおむね正しいんじゃないかね。どう思う、そこの〈きみ〉は?



孤独な時代の愛

完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な発言がある、「男の症状は女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage だ」と。この発言は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。


誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。


偶然の一致ではないのだ、女性解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。


現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『孤独の時代の愛 Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』1998年)


イマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果とは、父の権威のエディプス的父の権威の崩壊、つまり家父長制の崩壊のせいだよ。


ラカンは学園紛争を契機に《父の蒸発[évaporation du père]》あるいは《エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe ]》、それに伴う《レイシズム勃興の予言 prophétiser la montée du racisme》をしている。まさにジャーメイン・グリアの言う「結婚の終焉、道徳の終焉」だ。フコウにも「国家の終焉」はしてないけどさ。


これは構造的帰結だよ。フロイトの『集団心理学と自我の分析』の図を簡易化して示せばこうなる。



ーー要するに権威という三項があったときは、人々のあいだに結びつきがある。権威がなくなれば二項関係的になり、人々のあいだで差別やいじめ、穏やかに言えば競合関係が前面に出る。



権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する。Authority implies an obedience in which men retain their freedom(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)




話を『孤独の時代の愛』に戻して、症状についてもラカンから直接引いておこう。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である![« qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](ラカン、S22、21 Janvier 1975)

女はすべての男にとってサントーム である。男は女にとって…サントームよりさらに悪い…男は女にとって、墓場である。[une femme est un sinthome pour tout homme…l'homme est pour une femme …affliction pire qu'un sinthome… un ravage](ラカン、S23, 17 Février 1976)


ーーここでの症状とサントームは同じ意味であり、どちらも原症状ということである。



ま、実際問題、世界はこうなってんだからさ




単純に婚外子比率だけで比較はできないにしろーー欧米では結婚せずに子供を育てているパートナー関係もそれなりにあるだろうからーー、でも傾向としてはやっぱりこうだよ。他方、日本や韓国は依然頑張ってるな。「性差別大国」であることが大いにコウケンしてるんじゃないかね。




で、どうしたいんねん、日本のフェミニストたちは?

はやく欧米並みにしたいのかい?

口先だけで「第三の道」なんていったらダメだよ