以下、主に男性の同性愛についての記述だが、その前に基本的なところを示しておこう。
◼️すべての人間はバイセクシャルである
倒錯者たちは、女性に属していないというだけのことで、じつは自分のなかに、自分が使えない女性の胚珠をもっている。les invertis…il suffit qu'ils n'appartiennent pas au sexe féminin, dont ils ont en eux un embryon dont ils ne peuvent se servir, (プルースト「ソドムとゴモラ」) |
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人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性性または女性性[reine Männlichkeit oder Weiblichkeit]は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との統合をしめしている。 Diese ergibt für den Menschen, daß weder im psychologischen noch im biologischen Sinne eine reine Männlichkeit oder Weiblichkeit gefunden wird. Jede Einzelperson weist vielmehr eine Vermengung ihres biologischen Geschlechtscharakters mit biologischen Zügen des anderen Geschlechts und eine Vereinigung von Aktivität und Passivität auf, sowohl insofern diese psychischen Charakterzüge von den biologischen abhängen als auch insoweit sie unabhängig von ihnen sind.. (フロイト『性欲論三篇』1905年) |
この意味で、すべての人間はバイセクシャルである。人間のリビドーは顕在的であれ潜在的であれ、男女両方の性対象のあいだに分配されているのである。alle Menschen in diesem Sinne bisexuell sind, ihre Libido entweder in manifester oder in latenter Weise auf Objekte beider Geschlechter verteilen.(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年) |
…………… さて本題である。アンチポリコレの相がないではないがお許しを頂くことにする。 ◼️男性の同性愛者への母への永遠の愛 |
フロイトが言ったことに従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。…結局、倒錯が人間の本質である。que toute sexualité humaine est perverse si nous suivons bien ce que dit FREUD. …la perversion c'est l'essence de l'homme(Lacan, S23, 11 Mai 1976) |
同性愛において見られる数多くの痕跡がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係である。Il y a un certain nombre de traits qu'on peut voir chez l'homosexuel. On l'a dit d'abord : un rapport profond et perpétuel à la mère. (Lacan, S5, 29 Janvier 1958) |
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男性の同性愛者の女への愛[L'amour de l'homosexuel pour les femmes]は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「ひとりの女Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。 男性の同性愛者は、その人生において少なくとも一人の女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。… 私はすべてがそうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、ラカンがセミネール「無意識の形成」にて例として覆いを解いた男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。( Jean-Pierre Deffieux, Pour vivre heureux vivons mariés ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller、2013) |
■男性の同性愛者における母への愛の抑圧
われわれが調査したすべての同性愛者には、当人が後でまったく忘れてしまったごく早い幼年期に、女性にたいする、概して母にたいする非常に激しいエロス的結びつき[erotische Bindung]があった、ーー母親自身の過剰な優しさ[Überzärtlichkeit] によって呼び醒まされたり、あるいは助長させられたりして、さらにはまた幼児の生活中に父親があまり出てこないということによって。〔・・・〕 さて、この予備段階の後に一つの変化が起こる。この変化の機制はわれわれにはわかっているが、その原因となった力はまだわかっていない。母への愛は子供のそれ以後の意識的な発展と歩みをともにしない。それは抑圧の手中に陥る[Die Liebe zur Mutter kann die weitere bewußte Entwicklung nicht mitmachen, sie verfällt der Verdrängung. ] |
子供は母への愛を抑圧する。それは、子供が自分自身を母の位置に置き、母と同一化 し、彼自身をモデルにして、そのモデルに似た者から新しい愛の対象を選ぶことによってである。[Der Knabe verdrängt die Liebe zur Mutter, indem er sich selbst an deren Stelle setzt, sich mit der Mutter identifiziert und seine eigene Person zum Vorbild nimmt, in dessen Ähnlichkeit er seine neuen Liebesobjekte auswählt. ] このようにして彼は同性愛者になる[Er ist so homosexuell geworden]。いや実際には、彼はふたたび自体性愛[Autoerotismus]に落ちこんだというべきであろう。というのは、いまや成長した彼が愛している少年たちとは結局、幼年期の彼自身ーー彼の母が愛したあの少年ーーの代理 であり更新に他ならないのだから[die der Heranwachsende jetzt liebt, doch nur Ersatzpersonen und Erneuerungen seiner eigenen kindlichen Person sind, die er so liebt, wie die Mutter ihn als Kind geliebt hat. ]。 |
言わば少年は、愛の対象[Liebesobjekte]をナルシシズムの道[Wege des Narzißmus]の途上で見出したのである。ギリシア神話は、鏡に写る自分自身の姿以外の何物も気に入らなかった若者、そして同じ名の美しい花に姿を変えられてしまった若者をナルキッソス[Narzissus]と呼んでいる。 心理学的にさらに究明してゆくと、このようにして同性愛者となった者は、無意識裡に自分の母の記憶映像に固着[Erinnerungsbild seiner Mutter fixiert]したままである、という主張が正当化される。母への愛を抑圧することによって彼はこの愛を無意識裡に保存し、こうしてそれ以後つねに母に忠誠 な者となる[Durch die Verdrängung der Liebe zur Mutter konserviert er dieselbe in seinem Unbewußten und bleibt von nun an der Mutter treu. ] 彼が恋人としては少年のあとを追い廻しているように見えても、じつは彼はそうすることによって、彼を不忠誠にしうる他の女たちから逃げ廻っているのである[Wenn er als Liebhaber Knaben nachzulaufen scheint, so läuft er in Wirklichkeit vor den anderen Frauen davon, die ihn untreu machen könnten. ]。 |
われわれはまた直接個々の場合を観察した結果、一見男の魅力しか感じない者も本当は標準的な男性と同様、女の魅力のとりこになること[daß der scheinbar nur für männlichen Reiz Empfängliche in Wahrheit der Anziehung, die vom Weibe ausgeht, unterliegt wie ein Normaler]を証明しえた。 しかし彼はそのつど急いで、女から受けた興奮を男の対象に置き換え、絶えず彼がかつて同性愛を獲得したあの機制を繰り返すのである[aber er beeilt sich jedesmal, die vom Weibe empfangene Erregung auf ein männliches Objekt zu überschreiben, und wiederholt auf solche Weise immer wieder den Mechanismus, durch den er seine Homosexualität erworben hat. ](フロイト『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』第3章、1910年) |
■母との同一化メカニズム
上に母との同一化用語にて男性の同性愛のメカニズムが記述されているが、同一化には大きく二つの相がある。 |
同一化はまさに最初から両義的であり、情愛の表現にも排除の願望にもなりうる。Die Identifizierung ist eben von Anfang an ambivalent, sie kann sich ebenso zum Ausdruck der Zärtlichkeit wie zum Wunsch der Beseitigung wenden.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年) |
フロイトにおける男性の同性愛の機制についての思考は、この後者の同一化である。これは生物学的女性にも基本的には起こる(参照)。 |
女性の母との同一化は二つの相に区別されうる。つまり、①前エディプス期の相、すなわち母への情動的結びつきと母をモデルとすること。そして、② エディプスコンプレックスから来る後の相、すなわち、母から逃れ去ろうとして、母の場に父を置こうと試みること。 Die Mutteridentifizierung des Weibes läßt zwei Schichten erkennen, die präödipale, die auf der zärtlichen Bindung an die Mutter beruht und sie zum Vorbild nimmt, und die spätere aus dem Ödipuskomplex, die die Mutter beseitigen und beim Vater ersetzen will. (フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続・精神分析入門講義』第33講、1933年) |
要するに排除の機制の相としての同一化は、「場との同一化」である。 |
母との同一化は、母との結びつきを押し退ける。Die Mutteridentifizierung kann nun die Mutterbindung ablösen(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
父との同一化は父の場に自らを置くことである。Identifizierung mit dem Vater, an dessen Stelle er sich dabei setzte. (フロイト『モーセと一神教』3.1.3 Die Analogie ,1939年) |
たとえば女児にしばしば見られる人形遊びは、フロイトにとって女性性の顕れではない。母に対して受動的立場に置かれたことから逃れ去る試みである。 |
女児の人形遊び。これは女性性の表現ではない。人形遊びは、母との同一化によって受動性を能動性に代替する意図がある。女児は母を演じるのである。そして人形は彼女自身である。今、彼女は母がかつてしてくれたことのすべてを人形に対してすることができる。 das war ja der Sinn ihres Spieles mit Puppen. Aber dies Spiel war nicht eigentlich der Ausdruck ihrer Weiblichkeit, es diente der Mutteridentifizierung in der Absicht der Ersetzung der Passivität durch Aktivität. Sie spielte die Mutter und die Puppe war sie selbst; nun konnte sie an dem Kind all das tun, was die Mutter an ihr zu tun pflegte.; (フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続・精神分析入門講義』第33講、1933年) |
■男性の同性愛者は原愛の抑圧をしたままなのか
ここで男性の同性愛の話に戻ろう。Jean-Pierre Deffieux(2013)の記述に《男性の同性愛者の女への愛は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。》とあった。他にも私の知る範囲でも、プルースト 、ジャン・ジュネ、ロラン・バルト、日本でなら折口信夫、ーー彼らにおいて母への強い愛を示した記述がある。
他方、それを示していない作家、フロイト観点では母への愛を抑圧したまま生涯を終えた作家もいる。たとえばミシェル・フーコー。あれだけセクシャリティをめぐって記述したのに、彼は自らの幼年期をほとんど語っていない(少なくとも私の知る限りで)。どうだったのだろうか、フーコーは? 私にとってフーコーという人物への不満はここにある。
フーコーに限らず、少なくとも同性愛の「思想家」であるなら、フロイト観点と闘うべきではないか。あれは古い思考という結論がでるならそれはそれでもよろしい。だが現代ラカン派でもいまだフロイトの同性愛の記述に依拠している。私には彼らの人間のセクシャリティついての発言はどうも胡散臭くて仕方がない。鼻をつまみながら読むしかない。「女への性愛を隠蔽している」ーーシツレイ!--同性愛の男性作家諸氏はぜひこの私のような類の「偏見」を吹き飛ばすためにもフロイトやラカン派と闘ってほしいものである。
子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。 疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。 乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.] |
最初の対象は、のちに、母という人物のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者ersten Verführerin」になる。[Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. ] この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年) |
なお、「母への愛の抑圧」、あるいは「原愛の抑圧」における"抑圧"とは、フロイトにおいては元々、エスあるいは原無意識をを十全には抑圧できないことを示している。 |
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896年) |
抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年) |
この抑圧とはより厳密に言えば、原抑圧あるいは排除である、ーー《原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]》(『症例シュレーバー』1911年)=《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』1920年) |
私が排除[forclusion]について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969) |
排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne, 3 JUIN 1987) |
さらに「母への抑圧」ーー母なる女への抑圧ーーを言うなら、女性の異性愛者はどうなのかという疑問が当然生まれるだろう。フロイトラカンにおいては、女性の異性愛とは、実際は、ナルシシズムであり、その意味で、男性の同性愛者におけるほどの抑圧の強度はない。いや彼女たちは女というものへの愛をまったく抑圧していないと言える。 |
ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである。そして「ナルシシズム的リビドー」と「対象リビドー」の二つは対立する。qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,[…] l'amour c'est le narcissisme et que les deux s'opposent : la libido narcissique et la libido objectale. (Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
ーーリビドーとあるが、《リビドーは、愛の力の表出である。Die Libido war in gleichem Sinne die Kraftäußerung der Liebe,》 (Freud, “Psychoanalyse” und “Libido Theorie”, 1923)であり、ナルシシズム的リビドー、対象リビドーは、それぞれナルシシズム的愛、対象愛である。この前提で以下の文を読もう。 |
われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。Wir schreiben also der Weiblichkeit ein höheres Maß von Narzißmus zu, das noch ihre Objektwahl beeinflußt, so daß geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben. (フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年) |
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男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。アタッチメント型にのっとった完全な対象愛[Die volle Objektliebe nach dem Anlehnungstypus]は、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価[Sexualüberschätzung]をしている。〔・・・〕この性的過大評価は、惚れ込み[Verliebtheit] という神経症的強迫を思わせる独特な状態を発生させるのであるが、この状態の原因はこうして、対象への偏愛のために自我のリビドー[Ichs an Libido ]が乏しくなるという点に帰せられる。 |
女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズムの高まり[Steigerung des ursprünglichen Narzißmus]が現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともない、正規の対象愛[Objektliebe]を構成しがたいものにする。とくに美しく発育してゆくような場合には女性の自己満足[Selbstgenügsamkeit]が生じてくる。〔・・・〕 |
このような女性は厳密にいうならば、男性が彼女を愛するのと同じような強さでもって自分自身を愛しているにすぎない。彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである。 Solche Frauen lieben, strenggenommen, nur sich selbst mit ähnlicher Intensität, wie der Mann sie liebt. Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt.(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年) |
ラカンの異性愛の定義も掲げておこう。 |
定義上、異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72) |
仮にこの定義に則るなら、女性の同性愛者は異性愛者である。
最後にフロイトの愛についての基本を示しておこう。その思考の核心は、1914年のナルシシズム入門に現れている。
原ナルシシズムの内実については、「原ナルシシズムの原像」を参照されたし。それ以外に1921年の『集団心理学と自我の分析』に「愛の定義」と呼びうる箇所がある。