前回から引き続く。 次の文はフロイトにおいておそらくトラウマの定義が最も簡潔明瞭に現れている箇所である。 |
外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt.〔・・・〕 われわれはトラウマ的という語を次の出来事に用いる。すなわち、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的障害をきたす経験である。der Ausdruck traumatisch…Wir nennen so ein Erlebnis, welches dem Seelenleben innerhalb kurzer Zeit einen so starken Reizzuwachs bringt, daß die Erledigung oder Aufarbeitung desselben in normalgewohnter Weise mißglückt, woraus dauernde Störungen im Energiebetrieb resultieren müssen. (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年) |
エネルギーの作動の仕方の永久的障害とあるが、このエネルギーとは欲動エネルギー、あるいは「リビドー=リーベ」である。 |
われわれは情動理論 [Affektivitätslehre]から得た欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドー[Libido]と呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。〔・・・〕プラトンのエロスは、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕この愛の欲動[Liebestriebe]を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動[ Sexualtriebe]と名づける。 (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要) |
ーーフロイトはリビドーエネルギーという表現を(私の知る限りだが)一度も使っていない。おそらくリビドーという語はエネルギーを含んだ語だからだろう。最晩年には「リビドー =エロスエネルギー」とも言っている。 この欲動エネルギーの障害は初期フロイト用語ならQ要因の障害である。 |
フロイトにおいて、欲動の問題は、彼の出発点からーー欲動概念が導入されるはるか以前からーー見出される。その当時のフロイトの全ては、「エネルギーの量的要因 [Energiequantitäten Faktor]」とそれに伴った刺激を把握する試みである。最初から彼を悩ました臨床的かつ概念的問題のひとつは、内的緊張の高まり、つまり『科学的心理学草稿 ENTWURF EINER PSYCHOLOGIE』(1895)における名高いQ要因[quantitativen Faktor]である。すなわち身体内部から湧き起こるエネルギーの流体であり、人はそのQ要因から逃れ得ないことである。Q要因は応答を要求するのである。 このQ要因[quantitativen Faktor]は欲動Triebの中核的性質である。すなわち衝迫 [Drang]と興奮 [Erregung]である(『欲動とその運命』1915)。これは欲動の本来の名をを想起すれば明瞭である。独語TriebはTreiben (駆り立てる・圧する)である。不快な興奮の集積として、Q要因は解除されなければならない。そしてその過程で数多くの厄介事が発生する。現勢神経症からその防衛としての精神神経神経症の発生まで。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、ON BEING NORMAL AND OTHER DISORDERS, 2004年) |
どんな障害が起こるかと言えば、通常、可動性があるリビドーが固着するという障害である。 |
人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
このリビドーの固着がラカンの享楽である。 |
享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008) |
上にあるように欲望には可動性がある。ひとつの対象に止まらず換喩的移行がある。それに反して享楽は固着点に終始したままであり、その点に永遠回帰する。 |
享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…私は、この一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011ーー「一者がある Y'a d'l'Un」) |
これがフロイトラカン観点からのニーチェの永遠回帰のメカニズムである。 |
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) |
ーー《身体の出来事は、固着の対象である。un événement de corps…est l'objet d'une fixation.》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) つまりニーチェの文は「人は常に回帰する固着を持っている」と読み換えうる。 |
人は幼児期のトラウマ的出来事の固着を、その強度の差はあれみなもっている。 |
人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマStructural Trauma」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る「事故的トラウマAccidental Trauma」である。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender, From subject to drive, 2001) |
ラカンの享楽は穴=トラウマでありーー《享楽は穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ]》(ラカン, AE434, 1970)ーー、基本的にはこの構造的トラウマのことである。 |
人はみなトラウマ化されている。…この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010) |
フロイトの観点ではこの構造的トラウマは5歳までに起こる(2歳から4歳が最も起こりやすいとも)。 |
病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕このトラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我への傷(ナルシシズム的屈辱)である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs (narzißtische Kränkungen)]〔・・・〕 この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ] これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる。[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen] (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
《フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance.》 (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000) ーー上にも示したが、享楽は穴(トラウマ)であり、享楽の固着=穴の固着=トラウマの固着である。 |
幼児型固着といっても判別は難しいかも知れない。だが基本的には反復すれば固着に関わる。たとえば夢の反復。 |
夢は反復的夢となる時その地位を変える。夢が反復的なら夢はトラウマを含意する。le rêve change de statut quand il s'agit d'un rêve répétitif. Quand le rêve est répétitif on implique un trauma. (J.-A. Miller, Lire un symptôme, 2011) |
トラウマへの無意識的固着は、夢の機能の障害のなかで最初に来るように見える。睡眠者が夢をみるとき、夜のあいだの抑圧の解放は、トラウマ的固着の圧力上昇を現勢化させ、夢の作業の機能における失敗を引き起こす傾向がある。夢の作業はトラウマ的出来事の記憶痕跡を願望実現へと移行させるものだが。こういった環境において起こるのは、人は眠れないことである。人は、夢の機能の失敗の恐怖から睡眠を諦める。ここでトラウマ的神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを。 |
die unbewußte Fixierung an ein Trauma scheint unter diesen Verhinderungen der Traumfunktion obenan zu stehen. Während der Schläfer träumen muß, weil der nächtliche Nachlaß der Verdrängung den Auftrieb der traumatischen Fixierung aktiv werden läßt, versagt die Leistung seiner Traumarbeit, die die Erinnerungsspuren der traumatischen Begebenheit in eine Wunscherfüllung umwandeln möchte. Unter diesen Verhältnissen ereignet es sich, daß man schlaflos wird, aus Angst vor dem Mißglücken der Traumfunktion auf den Schlaf verzichtet. Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen (フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年) |
ーー『夢解釈』(1900年)のフロイトはこの固着を、夢の臍[Nabel des Traums]、菌糸体[mycelium]、我々の存在の核[Kern unseres Wesen] 等と呼んだ。
「我々の存在の核」で掲げた図を再掲しておこう。
さて、もちろん5歳以降でも、あるいは成人になってからでも、トラウマへの固着とその反復強迫はある。もともとフロイトが反復強迫としての死の欲動を直接的に言い出したのは、第一次世界大戦参戦兵士における外傷性戦争神経症の多発に直面してである。したがって幼児型の固着のみを言い募るのは適当ではない。ただしそれは、上に示したバーハウの言い方なら、構造的トラウマではなく事故的トラウマの反復強迫と呼ぶ相違があるだけである。幼児期に固着が起こりやすいのは、成人型言語によって出来事を秩序化(貧困化)できず生のままの痕跡が居残る、あるいは刺激保護の免疫が薄く傷が深く身体に食い込むせいである。 |
たとえば基本的には《初期幼児期の愛の固着 frühinfantiler Liebesfixierungen.》(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)ーーは、母に関係する(フロイトのリーベ(愛)には三相があり[参照」、ラカン語彙ならナルシシズム・欲望・享楽だが、リアルなリーベ=享楽であり、つまり愛の固着=享楽の固着である)。 |
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
とはいえ、五歳以前に別の人物への固着があるかも知れない。たとえば父への固着。 |
強い父への固着をもった少女の夢 Traum eines Mädchens mit starker Vaterfixierung, (フロイト『夢解釈の理論と実践についての見解』1923年) |
五歳以後でも、少女期に父への固着があったらそれを事故的トラウマ(アクシデント的トラウマ)と呼ぶのが相応しいかどうかは当面保留しておきたい。女性にはしばしばある固着だろうから。 繰り返せば、反復すればトラウマへの固着を通している。 |
愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
フロイトはエネルギーの量的問題を強調しているが、中井久夫によれば、些細な傷でも幼児型外傷記憶になりうる。 |
おそらく、心の傷にもさまざまなあり方があるのだろう。細かな無数の傷がすりガラスのようになっている場合もあるだろうし、目にみえないほどの傷が生涯うずくことがあり、それがその人の生の決定因子となることもあるだろう。たとえば、おやすみなさいのキスを母親に忘れられて父母が外出をする気配を感受する子どもの傷である。(中井久夫「吉田城先生の『「『失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収) |
これはミシェル・レリスの事例でもそうである。 |
《トラウマ》は日常言語の言葉になっている。だが出発においてのトラウマの語源は「傷を癒す」である[au départ, son étymologie est « guérir la blessure »]。ジャック=アラン・ミレールはミシェル・レリスの『闘牛鑑 L'Âge d'homme』について話していた。レリスは4歳で、テーブルの縁についていた。彼の母がとてもブルジョワ風にお茶を飲んでいた。彼はティーカップで遊び、突然起こるべきことが起こりカップが落ちた。レリスは目を瞠り、カップが割れるのを見て言った、《腹立つ![ …'reusement ! ]》。母はレリスに言った、《違うわ、可愛い坊や、幸運よ[nn mon chéri, Heureusement]》。そしてこれが彼の生のトラウマである。これが作家としての彼の生を決めた。トラウマを引き起こすものは、ときに、口にされたわずかなフレーズである。たんに大きな恐怖ではない。[il lui sort : « …'reusement ! ». Et sa mère lui dit « non mon chéri, Heureusement », et c'est le trauma de sa vie, ça décide de sa vie d'écrivain. Ça m'évoque que ce qui fait trauma c'est parfois une petite phrase dite, c'est pas simplement le grand effroi.](Georges Haberberg,« Traumatismes »2018) |
このレリスのような母の言葉の固着をララング(の固着)と呼ぶ(参照:ララング文献集)。 |
最終的に、精神分析は主体のララング(=母の言葉)を基盤にしている。ミレールは厳しくララングと言語を区別した。主体の享楽の審級にあるのは言語ではなくララングだと[ce n'est pas le langage qui met en ordre la jouissance du sujet, mais lalangue]。たとえばミシェル・レリスの « …reusement »である。ミレールはこのレリスの事例を何度も注釈している。これを通して、精神分析は言語の物質性[motérialité]を見出だす。ある言葉との出会いの偶然性があるとき、《1の身体の孤独において享楽を引き出す[retirent la jouissance dans la solitude du Un-corps]》。そして知の外部の場に位置付けられたその場を《人は何も知らない[où on n'en sait rien] 》(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen 「一般化フェティシズムの時代の精神分析 PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 」2010年) |