「十四歳の膝」と言うと、ロリコンとか言う人がいるんだろうが、そうじゃない。だいたい男が最初に真に女に惚れるのは、ちょうどその年頃の年齢、かつまたその年頃の少女だ(ボクは小学校五年のときでいくらかはやい、ーーいやほかの人もこのくらいの年齢かも知れないが)。最初に惚れた女は忘れ難い。場合によって特に膝に惚れたり、腋の下に惚れたり、スカートからのぞく太腿に惚れたりする。パートナーの女がいくらいい女でも 「十四歳の膝」はない。
谷川俊太郎の詩に、「素足」というのがある。
赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ
次の犀星の文を私はこういう文脈のなかで読む。
父親は話はこれから妙境にはいるのだと言ひ直し、娘を肘で小突いて見せたが、娘はわかつたわよ、あのことでせうと答へ、例の膝の頭から少しづつスカートに時間を置いて、上の方にずらせて行つた。上の方には十四歳の膝がきよらかな瞳をぱちくりやつて、あらはれた。見物人は一樣に自分の狼狽の氣色を見せまいとして、却つてあをざめた顏色になつた。それはさういふ處で見てはならないものであつて、見た者は一旦それを見たことによつて見ない以前にまで立ち還らなければならないものであつた。そこにまごついて收拾出來ない氣分の混亂があつた。娘の手はスカートを放さずにもつと上の方にまで、それをずり上げる氣はいを見せ、見物人はいま一息といふところで持前の横着な心を取り戻したのである。いまの先に味つた見てはならないものである氣配のきびしさはもう見えなかつた。見てやれ、このちんぴらのそれが何であらうと見てやれといふ圖太い氣が募り出して來た。娘はうたひ出した。夏草は生ひ、橋はかくれた、と、ただそれだけを何度も繰りかへしてゐた。そんな歌よりもつとスカートをあげろ、じらすな、おあづけするなんて、こつとら犬ぢやねえぞと或る者は少し醉つて呶鳴り、娘は顏をあからめスカートをずつと下ろして、膝も何も見えなくして了つた。 |
恰度、うまいぐあひに日はさすがに次第に灰鼠色に暮れていつた。さあ、これからだと父親は帽子の裏を見せて、金を集めにかかつた。娘はこの街裏に巡査のすがたが、ないかどうかを警戒しはじめた。 「早く行かないとデパートが閉つてしまひますよ、お金までお出しになつて一體あの娘さんの裸を見るつもりなの、あきれた、あなたといふ人はまるで溝みたいに汚ない處につながつてゐるのね。」 「人間にはいつも偶然といふやつがあつて、それを逃がしてしまふと無味乾燥の地帶を歩かなければならないのだ。何もさう急いで此處を外す必要がない、三百圓といふ金で人間は駭いて、その駭きで見る物を見てゐた方が面白いのだ。」 「女をつれたあなたの、それが本音だと仰言るんですか、獨り者ならそんな氣になることも許せるんだが、あなたはちやんとした妻まで持つてゐて、まだ見たい物がそんなに澤山にあるんですか、まるで恥づかしいことを知らない方だ、あなたがゴミ箱のそばにいらつしやるのを、あたしがぢつと見てゐられるとお思ひになるんですか。」 |
「では、君に質問するが、君は十四歳の膝といふものを僕に見せてくれたことがあるかどうか、いまこの機會をのがしたら僕は十四歳の膝を見ることが生涯にないのだ。」 「十四歳の膝に何があるの。」 「十四歳の膝自體は人間といふものを見たことがないのだ、人間がそれに乘ることが出來ないところに、やがては誰かが乘るまでの、無風状態が僕を惹きつけるのだ。嘗て人間の中の女はみなかういふところで、誰にも見られず本人も知らないで育つたといふことに、いま氣がつきはじめたのだ。たんにそれは清いとか美しいといふものではなく、ああ、能くそれまでにひそかに形づけられ成長したといふことで、人間がまれにおぼえる感謝といふものをひそかに受けとりたいのだ、そしてそれは君の十四歳といふ年齡にあと戻りして君を愛するもとにもなる。君は目前のいやらしさがたまらないといふのであらう、僕だつてこの少女の前では僕自身がどうにも厭らしくてならないのだ、併し僕のかういふ根性はここまで墮落してかからなければゐられないのだ。」 |
「ぢやごらんになるがいいわ、恥づかしくなかつたら。」 「恥づかしいからそれを揉み消すために、無理にも見物するのだ。」 「出來たらその不潔な眼をくり拔いてあげたい。」 「僕もいつもそれをねがつてゐるのだ、僕のセックスも引き拔きたいのだ。」 「あきれた。」 「この二匹のうはばみを見物してゐるのは僕や君ではなくて、實は僕や他のここにゐる連中がかれらから見られてゐるのだ。少女の前でいやおうなしに何かを白状してゐる僕らが、やはり同樣の何匹かのうはばみなんだ。」 |
「あなたはそんな下劣さをふだんには、うまく匿くしていらつしつたのね。何食はぬ顏つきで女のどんな部分でも見逃がすまいとしていらつしやる慾情が、あたしに嘔きたくなるくらゐ厭世的な氣持になるわ。あんな女の子の膝が見たいなんて、それは、まともな人間の考へだと思つていらつしやるんですか。」 「僕が拂ふ金であの子は何かが買へる。僕が見ないで通りすぎればあの子の收入がそれだけ減るのだ、僕自身だつて見ないより見た方がいい、美しい人間を見ることに誰に遠慮がいるものか。」「あたしがゐても、見たいんですか。」 「君がゐるから一そう見たいのだ、君にない物がここに存在してゐるとしたら、それを見るといふことも物の順序なんだ。」 |
「なさけない方だ。そんな方と肌を交はしてゐたことが取り返しのつかない氣がして來るわ。いまは見るかげもない一人の男としてのあなたを、その見るかげのない處からたすけ出すことがあたしには厭になつて來ました。あたしは何時もあなたのいやらしいところから、それをたすけるためにいろいろ苦心をして來たんですけれど、もうまるでそんな氣は打抛つて了ひました。ゆつくりご覽になつた方がいいわ。その眼が眞正面にいとけない女の子に對つてゐられたら、此處に殘つて見ていらつしやい。人間のまもらなければならないところに、そのまもりを破つても物を見ようとする心が、どのあたりできまりがつけられるかも、ついでに能く見て置いた方がいいわ。」 |
「人間なんかに、物のきまりがあるものか。君の説得はそれきりなの。」 「あさましい方だ。あさまし過ぎて白紙みたいな方だ。併しどうしてそれにいままであたしが氣がつかなかつたのか、寧ろあたしはそれを搜してみたい氣持なんです。」 「僕はそれでたくさんなのだ、品の好い人間にならうと心がけたことは、いまだ、かつて一度だつてないのだ。」 「では、あたしお先にまゐります。ゆつくりごらんになつてゐた方がいい。」 「何も先きに行かなくとも、二分間もあれば見られるぢやないか。」 「その眞面目くさつたお顏も、いままでに一遍だつて見たことがないお顏なんです。あなたにも、そんな懸命みたいなお顏をなさるときがあるのね。」 「あるさ、けふはそれが甚だしく現はれてゐるとでも、君はいひたいのか。」 「二分間であたしを失ふことになつたら、どう處置なさるおつもり。」 「この二分間がどんなに汚ないものであつても、君は去らないさ。」 「去つたとしたら?」 「去らないよ君は、かういふことで女が去るとしたら、女は一生涯去り續けなければならないものだ。」 「では行くわ。」 |
(室生犀星『末野女』初出:「小説新潮」1961(昭和36)年9月) |
Éric Rohmer, Le Genou de Claire, 1970 |
怒るなよ、きみの膝だってとってもステキさ
いくらか話を変える。
人はみな多かれ少なかれ愛においてフェティシスト的である。ほとんどの標準的愛においてフェティシズムの絶え間ない服用がある。Tout le monde est plus ou moins fétichiste en amour ; il y a une dose constante de fétichisme dans l'amour le plus régulier(アルフレッド・ビネー Alfred Binet『愛におけるフェティシズム Le fétichisme dans l'amour,』1887年) |
これは現在の通念とは異なる。代表的なものは「女にフェティシストはほとんどいない」という通念である。とはいえフロイトにおいてフェティシズムは固着である(原初的には母の身体への固着[参照])。 |
もしこの観点を取るなら、フェティシズムは男にも女にもにある「我々の存在の核[ Kern unseres Wesen]」である。それはミシェル・レリスがジャコメッティ論で言っている通り。 |
フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった。le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) |
要するに一般化フェティシズムである。 |
排除の普遍性があるなら、ーー女というものとして(大他者の彼岸に)外立する排除の普遍性があるならーー、フェティッシュの普遍性もまたある。すなわち倒錯、ラカンが父とヴァージョンの二つの語をひとつにて記した「父の版の倒錯 père-version」である。〔・・・〕したがって女性のポジションは、一般化フェティシズムから逃れられないのが了解される。 il y a un universel de la forclusion qui ex-siste [siste au-delà de l'Autre] à l'instar de La Femme, il y a aussi un universel du fétiche, c'est-à-dire de la perversion, qu'on l'écrive en deux mots (père-version) ou en un seul. [...] La position féminine n'échappe pas au fétichisme généralisé ainsi entendu.(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ , 2010) |
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父の名は母の欲望を隠喩化する。この母の欲望は、享楽の名のひとつである。この享楽は禁止されなければならない。我々はこの拒絶を「享楽の排除」あるいは「享楽の外立」用語で語りうる。二つは同じである。 Le nom du père métaphorise le désir de la mère […] ce désir de la mère, c'est un des noms de la jouissance. […] jouissance est interdite […] on peut aussi parler de ce rejet en terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011) |
Éric Rohmer, Pauline à la plage, 1983 |
愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
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