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2021年4月2日金曜日

マヌケの「自己を語る遠まわしの方法」

なんだい、また「自己を語る遠まわしの方法」やってんのかい?


自己を語る一つの遠まわしの方法[une manière de parler de soi détournée]であるかのように、人が語るのはつねに他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ[qui joint au plaisir de s'absoudre celui d'avouer.。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させる。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方[Diese Art, sich gegen einen Selbstvorwurf zu verteidigen, indem man den gleichen Vorwurf gegen eine andere Person erhebt]は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺ返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投射[Projektion des Vorwurfes auf einen anderen] は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされる。 (フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)



「他人への非難の投射の仕方」はヴァリエーションがあるんだろうがね、時と場合によって。


ところで、嫉妬妄想や追跡妄想[das Verhalten des eifersüchtigen wie des verfolgten Paranoikers]をもつ患者が、内心に認めたくないことがあって、それをほかの他人に投射[projizieren nach außen auf andere hin]するのだと我々がいっても、それだけでは彼らの態度を充分には述べてはいないように思われる。


投射することは確かだが、彼らはあてなしに投射するわけではないし、似ても似つかぬもののあるところに投射するのでない。彼らは自分の無意識的知に導かれて、他人の無意識に注意を移行させる。彼らは自分自身の中の無意識なものから注意をそらして、他人の無意識なものに注意をむけている。[sie lassen sich von ihrer Kenntnis des Unbewußten leiten und verschieben auf das Unbewußte der anderen die Aufmerksamkeit, die sie dem eigenen Unbewußten entziehen]


われわれの見た嫉妬ぶかい男は、自分自身の不実のかわりに、妻の不貞を思うのであって、こうして、彼は妻の不実を法外に拡大して意識し、自分の不実は意識しないままにしておくのに成功している。(フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年)



ま、後期ラカン的には「人はみな妄想する」のだから、それを受け入れるなら人はみなそれぞれの仕方で内的葛藤を他者へと投射してるのさ。


で、この記事自体、外部から見たボク自身の欠点の投射投影だろうよ。


人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)



人生には穴がつきものだからしょうがないさ。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


欲動、つまりリアルな享楽の穴は投射でもして穴埋めしなくちゃな、そうでもしないとブラックホールに吸い込まれちまうから。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


とはいえ〈キミ〉のようなタイプの人間みてると、最近こう思うことしきりだよ。


相手のどんなにすぐれた知的長所も感受性も、それが自分をやりきれなくさせたり、いらいらさせたりするものであれば、誰の目にも頭がからっぽで軽率で無能と見なされているような男の率直さや陽気さのほうがまだしも好感がもてるだろうと思われるのである。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)