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2021年4月2日金曜日

二十一世紀は灰色の世界


日本の「あした」

いやあボクはもういいよ、海外住まいだしそもそももうそれなりに長く生きたから。2040年なんて死んでるさ。でも今、30歳とか40歳ぐらいの若い人だな、2040年にはまだ50歳とか60歳だぜ。

オジイチャンひとりに2000年は4人で仕送りしていたのに、2040年には1.5人で仕送りしなくちゃならないんだ。オジイチャンへの仕送り額、なんらの形で減らすしかないよ。これ以外に何か他の方法あるかね。

仕送り70歳からにしてもきついね、2040年の70歳以上を支える現役世代は2.1と巨額借金を抱えプライマリーバランスとはほど遠い2020年65歳以上比率1.9と大差ない(次の図は冒頭の生産年齢人口15-64歳ではなく、事実上の現役世代20-64歳で見ている。こちらの方が実態に近いだろうから)。



75歳なら3.2人と、少し負担を増やせばーーたとえば他国並みに消費税25%にしたらーーいけるだろうけど、いくら最近の年寄りが元気になったっていったって酷というもんだ。

何度か示しているけど「プロジェクトの時間」で考えてみたらどうだい?


プロジェクトの時間(投企の時間 le temps du projet )は支配的議論の原理を覆す。過去は取り消せないものではない。過去は固定化されていない。現在の行為が、過去の上に反事実的力をもつ。[Le passé n'est pas irrévocable, il n'est pas fixe, l'action présente a un pouvoir contrefactuel sur le passé.](Jean-Pierre Dupuy, 「啓蒙カタストロフィ主義のために Pour un catastrophisme éclairé 」2004)


ーーここでの「反事実的 contrefactuel」とは、ヘーゲルの「遡及的 Rückwirkung」(遡及性)のこと。


カタストロフィ的出来事は運命として未来に刻印されている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。……たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事がアクチュアルになること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのである。[C'est donc l'actualisation de l'événement – le fait qu'il se produise – qui crée rétrospectivement de la nécessité.](ジャン=ピエール・デュピュイ, Petite métaphysique des tsunami, 2005)





標準的観点によれば、過去は固定化されている[the past is fixed]。既に起こったことが起こったのであり、やり直しはきかない。そして未来は開かれている[the future is open]。未来は予期できない偶然性によって決まる。


われわれ(デュピュイと私)が提案していることは、この標準的観点の転倒である。すなわち過去は開かれている[the past is open]。過去は遡及的な再解釈に開かれている。他方、未来は閉じられている[the future is closed]。その理由はわれわれは(因果的)決定論の世界に生きているから。これは、未来は変えられないことを意味しない。それが意味するのは、未来を変えるためには、われわれは先ず過去を(「理解する」のではなく)変化させなければならないことだ。過去を再解釈すること。過去の支配的視野によって暗示された未来とは別の、異なった未来に向けて開かれているように過去を再解釈すること。(ジジェク、Hegel, Retroactivity & The End of History, 2019)



デュピュイやジジェク は「過去」と言っているけど、未来の固定点から見た「この今」でいいんだ。この今を再解釈することでさ。


ジジェクがどう考えているかは言わずもがなコミュニズムに決まっているのだけど、ま、そこまで言わないでも「コミューン」だな、家族の復権だよ。



今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。


困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。


現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年)



それ以外は、老人にもう少し早く死んでもらうことぐらいじゃないかね、共倒れにならないためには。


ひょっとすると、多くの社会は、あるいは政府は、医療のこれ以上の向上をそれほど望んでいないのではないか。平均年齢のこれ以上の延長とそれに伴う医療費の増大とを。各国最近の医療制度改革の本音は経費節約である。数年前わが国のある大蔵大臣が「国民が年金年齢に達した途端に死んでくれたら大蔵省は助かる」と放言し私は眼を丸くしたが誰も問題にしなかった。(中井久夫「医学部というところ」書き下ろし1995年『家族の肖像』所収)


「二十一世紀は灰色の世界、なぜならば、働かない老人がいっぱいいつまでも生きておって、稼ぐことのできない人が、税金を使う話をする資格がないの、最初から」、こう言ったわけであります。渡辺通産大臣は、それ以外にも、八三年の十一月二十四日には、「乳牛は乳が出なくなったら屠殺場へ送る。豚は八カ月たったら殺す。人間も、働けなくなったら死んでいただくと大蔵省は大変助かる。経済的に言えば一番効率がいい」、こう言っておられます。(第104回国会 大蔵委員会 第7号 昭和六十一年三月六日(木曜日) 委員長 小泉純一郎君……)



ひどいこと言っているようにみえる渡辺美智雄や当時の大蔵省は、彼らなりの仕方で「プロジェクトの時間」をやっていたんだよ、「二十一世紀は灰色の世界」という未来の固定された点(fixed point[下図])から当時のバブル期のなかでの消費税導入の布石を。もっとスムーズに導入されて、現在、消費税20%ぐらいになっていたらこんなとんでもない借金を抱えることはなかったのだが、ま、いまさら言っても遅い。そもそも債務比率が他国並みでも、現在の突出した超少子高齢化社会は変わっていない。