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2021年4月2日金曜日

小芸術家の滑稽な欠点を許容するか否かだよ

前回引用した自己を語る遠まわしの方法」の前段にはこうあるんだよ。


われわれの友人は、各自に多くの欠点をもっているから、そんな友人を愛しつづけるにはーーその才能、その善意、そのやさしい気立てを考えてーーその欠点をあきらめるようにするか、またはむしろ、積極的にわれわれの善意を出しきってその欠点をのんでしまうようにつとめなくてはならない。不幸にも、友人の欠点を見まいとするわれわれの親切な根気は、相手が盲目のために、それとも相手が他人を盲目だと思いこんでいるために、あくまでその欠点をすてないので、その頑固さにうちまかされてしまう。相手は、なかなか自分の欠点に気がつかず、また自分では他人に欠点を気づかれないと思いこんでいるのだ。

他人のきげんをそこなう危険は、何よりも物事がそのまま通ったか気づかれなかったかを見わけることの困難から生じるのだから、われわれは用心して、すくなくとも自己のことはけっして語らないがいいだろう、なぜなら、自己の問題では、他人の見解とわれわれ自身のそれとがけっして一致しないことは確実だといえるからだ。

他人の生活の真相、つまり見かけの世界のうらにある真の実在の世界を発見するときのおどろきは、見かけはなんの変哲もない家を、その内部にはいってしらべてみると、財宝や、盗賊の使う鉄梃〔かなてこ〕や、屍体に満ちている、といったときのおどろきに劣らないとすれば、われわれが他人のさまざまにいった言葉からつくりあげたわれわれ自身の像にくらべて、他人がわれわれのいないところでわれわれについてしゃべっている言葉から、他人がわれわれについて、またわれわれの生活について、どんなにちがった像を心に抱いているかを知るときも、またわれわれのおどろきは大きい。

そんなわけで、われわれが自分のことについて語るたびに、こちらは、あたりさわりのない控目な言葉をつかい、相手は表面はうやうやしく、いかにもごもっともという顔をしてきいてかえるのだが、やがてその控目な言葉が、ひどく腹立たしげな、またはひどく上調子な、いずれにしてもはなはだこちらには不都合な解釈を生んだということは、われわれの経験からでも確実だといってよい。一番危険率がすくない場合でも、自己についてわれわれがもっている観念とわれわれが口にする言葉とのあいだにあるもどかしい食違によって、相手をいらいらさせるのであって、そうした食違は、人が自分について語るその話を概してこっけいに感じさせるもので、音楽の愛好家を装う男が、自分の好きなアリアをうたおうとして、その節まわしのあやしさを、さかんな身ぶりと、一方的な感嘆のようすとで補いながら、しきりに試みるあのおぼつかないうたいぶりに似ているだろう。なお自己と自己の欠点とを語ろうとするわるい習慣に、それと一体をなすものとして、自分がもっているものとまったくよく似た欠点が他人にあるのを指摘するあのもう一つのわるい習慣をつけくわえなくてはならない。(プルースト 「花咲く乙女たちのかげに」)


ま、こういうもんだろうな、ほとんど誰でも。プルーストはこのすこし先で「大芸術家の欠点」を語っているが、大芸術家なんてのは今ではどこを探してもいないので、そうではなく小芸術家の自分の専門分野以外の滑稽な欠点を許容するか否かだな、と言っておくよ。


かつては、そしていまでも、トウィックナムやバッキンガム宮殿からの招待を心ゆかしくかくしているほどの彼が、スワン夫人の訪問のお礼にやってきたある官房次官の細君のことを、ひどくじまんそうにしゃべるのをきくと、やはり誰でもおどろくのであった。

そうしたことは、おそらく、エレガントなスワンの単純さも、じつをいえば、虚栄心のいっそう洗練された形式にすぎなかった、ということで説明されるかもしれないし、また、一部のイスラエル人種のように、この私の一家の旧友は、彼の種族が経過した状態を、すなわちもっともうぶなスノビスムからもっとも下品な無作法を経てもっとも繊細な礼儀に達するまでの状態を、つぎつぎに実演してみせたのだ、とも説明されよう。

しかし最大の理由、そしておそらく一般の人間にもあてはめられる理由は、もともとわれわれのもっている徳性自体が、いつでもわれわれの手で勝手に処理できるような、何か自由な、浮動したもの、そういうものではないということであった、つまりわれわれの徳性は、いろんな行為にーーわれわれがさしずめそうした徳性を行使するのが義務だと考えてやったような行為にーーじつに密接にむすびついてしまうものだから、にわかにべつな種類の行動に直面すると、まったくふいをうたれて、この行動がはたしておなじ徳性の発動によって起こされたものであるかどうかを考える余裕もないのだ。

そんな新しい連中との交際にうつつをぬかして彼らの名を誇らしげに口にするスワンは、たとえば根が謙譲であったり寛大であったりする大芸術家でも、晩年に調理や花壇に凝りだすと、自分がつくった料理なり植込なりにたいして、自分の芸術の傑作についてならばたやすく受けいれるあの批判を、断じてゆるさない、そのくせ相手のお世辞となるとまったくたわいもない満足ぶりを発揮するといった人たち、または、自筆の絵の一枚を無造作にくれてやっても平気でいながら、それにひきかえ、ドミノをやり四十スーとられたとなると、 ふさぎこんでしまう人たち、そんな大芸術家のある人たちに似ているのであった。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)




で、お前さんそんなにアツくなるなよ、ボクなんかが鼻を摘んだり吐き気をもよおしたりしてもほっといたらいいんだよ


最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』)