このブログを検索

2021年4月17日土曜日

華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり

 道元の核心と言われる「現成公案」だが、そのなかでも《華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり》が真髄らしいよ


◼️道元『正法眼蔵』 「現成公案」より

諸法の佛法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。[一段] 


萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸佛なく、衆生なく、生なく、滅なし。[二段] 


佛道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり、[三段] 


しかもかくのごとくなりといえども華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。[三の二段] 


自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。[四段] 


迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり、さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。[五段] 


諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず、しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。 [六段] 


身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聴取するに、したしく會取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあら ず、水と月とのごとくにあらず、一方を證するときは一方はくらし。[七段] 


佛道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは自己をわするるなり、自己をわするるといふは、萬 法に證せらるるなり、萬法に證せらるるといふは、自己の身心、および侘己の身心をして脱落せしむるなり、悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟跡を長長出ならしむ。[八段] 


人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり、法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。 [九段] 


人舟にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる、めをしたしくふねにつくればふねのすすむ をしるがごとく、身心を亂想して、萬法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる、もし行李をしたしくして、箇 裏に歸すれば、萬法のわれにあらぬ道理あきらけし。[十段] 


たきぎははひとなる、さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず、しかあるを灰はのち薪はさきと見取すべからず、しるべし薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際斷せり、灰は灰の法位にありて、後あり先 あり、かの薪はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのちさらに生とならず、しかあるを生の死に なるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ、死の生にならざる、法輪のさだまれる佛轉 なり、このゆゑに不滅といふ、生も一時のくらゐなり死も一時のくらゐなり、たとへば冬と春とのごとし、冬の春となると おもはず、春の夏となるといはぬなり。[十段の二] 


人の悟をうる、水に月のやどるがごとし、月ぬれず、水やぶれず、ひろくおほきなる光にてあれど、尺寸の水にやどり、 全月も彌天もくさの露にもやどり、一滴の水にもやどる、悟の人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし、人の 悟を罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし、ふかきことはたかき分量なるべし、時節の長短は、大水小水 を檢点し天月の廣狭を辨取すべし。[十一段] 


身心に法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ、法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり、たとへば船にのりて山なき海中にいでて四方をみるにただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし、しかあれどこの大海、まろなるにあらず方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり、宮殿のごとし、瓔珞のごと し、ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり、かれがごとく萬法もまたしかあり。塵中格外おほく様子を帯せりといへども參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり、萬法の家風をきかんには方圓とみゆるよりほ かに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし、かたはらのみかくのごとくあるにあらず、 直下も一滴もしかあるとしるべし。[十二段] 




以下、勝俊「正法眼蔵 現成公案に参ずる」より、PDF








前段までにおいて仏道の意味および禅師の新たな仏法を展開したのであるが、しかしどのように自分が悟ったとしても、また真理を得たとしてもそれが他人との差別となって現れるわけではなく、自分が絶対的な地位を得るわけでもない。そのどこまでも凡夫でしかないという切なさ、あるは己に対する納得がこの表現に凝縮されている。これが道元禅の真髄であろう。(勝俊「正法眼蔵 現成公案に参ずる」、PDF)






➡︎「穴の昇華