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2021年4月18日日曜日

現在の日本仏教を「大乗仏教」と呼ぶのは詐称

 以下、仏教についてほとんど無知の者の備忘である。まず私にはよくまとまったと思われる、だがやや古い論文から引用するが、おそらく基本認識は現在も変わっていない。ただし小乗仏教は現在、「上座部仏教」と呼ばれることが多くなっているようだ。


◼️薗田香融 - 「東アジアにおける仏教の伝来と受容」1989

中国仏教の伝来


紀元前五世紀のころ、インドの釈迦牟尼によって創唱された仏教は、紀元前三世紀にいたり、古代インドの最初の統一者、アショカ大王によって全インドに宣布され、やがて西北インドから中央アジアを経て、紀元一世紀には中国の中原地方にまで達した。〔・・・〕


中国仏教の特色


仏教伝来期の中国では、仏は「浮図[フト]」とよばれ、黄帝・老子などの道教の神に准じて受容され、攘災招福・不老長寿の霊力を有する神として信仰されたようである。仏教はもともと超世間的な宗教であるが、少くとも初期の中国仏教では現世の福徳を祈る世間的な宗教として受けいれられたのであり、そこにはすでに中国仏教の最も基本的な特色である現実的性格が窺われる。〔・・・〕


中国仏教がインド仏教の中から、大乗仏教を選択、受容したことも、おそらく右に述べたことと無関係ではなかろう。一般に西北インドからシルクロードを経て中国に伝えられた「北伝仏教」は、「大乗仏教」と同義語のようにみなされがちであるが、決してそうではない。当時の西北インドや西域諸国では、大乗とともに小乗もさかんに行われていたのであり、そのことはやや時代が降るが、法顕や玄奘の旅行記からも知られるとおりである。また大乗仏典とともに多数の小乗仏典が伝訳されたにもかかわらず、中国人とその社会は、小乗仏教を大乗仏教の基礎学として受容するにとどまり、それを彼ら自身の生き方の指針とすることはなかったのである。〔・・・〕


(1)日本仏教の仏来は、百済を通じてなされた。これに関する異伝は全くない。


(2)伝来年代については、二つの有力な異伝があり、今のところそのいずれが正しいとも決することはできない。そこで二つの異伝の示す許容年代は五三八ー五五二年となるが、当時の百済・日本の国情や両国の交渉などを考慮すると、五四五年前後に正しい年代を求めうる可能性が大きい。


(3)仏教伝来とともに宮廷に賛否両論が起り、国論を決することができなかった。そこで天皇は、大臣である蘇我稲目に仏像を授け、礼拝させた。日本仏教の伝来と受容に当って蘇我氏の果した役割はすこぶる大きい。


(4)こうして蘇我氏を中心に仏教の受容がすすめられていったが、これに対する反対もつよく、少なくとも二度以上の大がかりな仏教に対する弾圧が行われたことはたしかである。(薗田香融 -「東アジア における仏教の伝来と受容」1989)







大乗仏教:小乗教徒が自利のみに走り、一般の在家信者を顧みない傾向が強かったのに対し、菩薩たち(大乗仏教の僧侶のこと)はみずからが仏陀となることとともに、あるいはそれ以上に、あらゆる人々をさとらせ、救済しようとする慈悲を強調したから大乗という。(『仏教辞典』岩波書店)

大乗仏教:紀元前後から、保守化形式化した小乗仏教に対して興った新仏教。【大きな乗り物】の意で、菩薩信仰をもとに、すべての人間の救済をめざす。実践的になるとともに、深遠な教理が形成されていった。(『世界史用語集』山川出版社)


現在の日本仏教を「大乗」と呼ぶのはまさに詐称であり、学校教育でも、「もともとは大乗を目指した日本仏教であったが、現在ではタイ仏教よりもずっと小乗的になっている」と教えた方が、東南アジアの仏教に対して根拠の全くない優越感を日本人が抱いてしまうことを防ぐことができるであろうし、また東南アジアの仏教から学ぶ貴重な機会をみすみす逃してしまうという大きな損失を防ぐ上でも望ましいようにさえ思われる。(浅見靖仁「日本仏教の再「大乗」化のための処方箋」2004年、PDF




小乗(Hinayana)について


この「ヒーナヤーナ」という語は、『八千頌般若経』に現れている。原語「ヒーナ」には、「小さい」のほかに、「劣った」、「卑しい」というような意味もあり、しばしば高等学校の教科書では大乗仏教から、伝統的な仏教を守る人たちへ投げかけた「貶称」(おとしめた名称)である、という記述がある。漢訳の「小」にも、軽蔑的な意味合いがある。たとえば「小人」といえば, 「つまらない、人間として成熟していない人間」を意味するように。


しかし、般若経を読んでみると、「小乗」が、かならずしも「おとしめている」ばかりと は思えない。事実、上述のように, 「大乗」の名で初期仏教の実践徳目が採用されているの である。般若経は初期仏教の伝統を受け継く小出家老たちが、自分たちの「さとり」のみに専念する姿勢を批判したのである。般若経は、声聞、緑覚の智慧に満足してとどまることなく、命ある生き物たちと共に慈悲に、生きる菩薩たちの智慧に遇進するように強く勧めるのである。 「停滞」を戒めるのであって、非難、否定しているのではない。特に日本仏教において 「小乗」という貶称が強調されすぎ、誤解されている側面があることは、正されなければならないであろう。(坂部明「仏教における空について」2004年、PDF





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※付記







◼️大乗仏教 (国史大辞典)

インドで西暦紀元後に興起した新しい形態の仏教。サンスクリットでマハーヤーナMahāyānaという。Mahāとは「大きい」の意、yānaとは「乗物」を意味する。それ以前からあった保守的な仏教(いわゆる小乗仏教)では修行僧が独善的になる傾きがあったのに対して、ひろく民衆のための仏教であることをめざす。「大乗」の「大」には、大・多・勝の三義があるという。それは(一)偉大な教えであり、(二)多くの人々を救い、(三)勝れた教えであることを標榜する。大乗仏教は、民衆の宗教であり、諸仏・諸菩薩を信仰する。みずからは救われなくてもまず他人を救うという菩薩bodhisattvaの精神が強調された。諸仏・諸菩薩を熱心に信仰して念ずることを強調するために、多数の仏像が製作された。その製作の中心地は、ガンダーラGandhāra(パキスタン北部)とマトゥラーMathurāとであった。

最初期の大乗仏教は、ストゥーパを崇拝していた一般民衆および修行僧のあいだから起ったと考えられるが、当時は荘園をもたなかった(当時荘園をもっていたのは、いわゆる小乗仏教だけである)。しかし民衆のあいだに根強かった呪術的要素をとりいれることによって、一般民衆のあいだにひろがった。多数の大乗経典が編纂された。まず多数の般若経典がつくられて、あらゆる事物は空である(一切皆空)ということを説いた。また従前の仏教諸派の超世俗的態度を排斥して、『維摩経(ゆいまきょう)』や『勝鬘経(しょうまんぎょう)』は、世俗的な在家の生活のうちにあって真の仏道を実践すべしという態度を表明している。

『華厳経(けごんきょう)』は菩薩の道を説いているが、一切のものは互いに入りまじり影響し合って成立しているという道理をくり返し表明し、唯心説までも述べている。浄土経典(『阿弥陀経』『大無量寿経』『観無量寿経』など)は、阿弥陀仏を信仰することによって極楽浄土に生まれることをすすめる。『法華経』は、その前半においては、仏教のいろいろな仕方の実践がどれも完成に達するための原因であるといって、種々の実践法の存在意義を認め(一乗思想)、後半においては、究極には久遠の本仏が存することを説いている。

哲学学派としては、中観派(ちゅうがんは、Mādhyamika)と唯識派(ゆいしきは、Vijñānavādin)とが主なものである。中観派は、竜樹(りゅうじゅ、ナーガルジュナNāgārjuna)に始まるが、種々の論法をもって、あらゆるものが空であるということを論証する。「空」とは、縁起とか中道とかの教えと同じ趣意である。唯識派とは、別名ヨーガ行派Yogācāraともいうが、精神統一によって心を静め、外界の事物はすべて心の顕現したものであると観ずる。その教えは、弥勒(マイトレーヤMaitreya)と呼ばれた哲人に始まるというが、体系的な学説は世親(天親ともいう。Vasubandhu)により完成された。彼によると、われわれの存在の根底にアーラヤ識ālayavijñānaと名づけられる精神的原理があり、万有はそれから顕現したものにほかならない、ということを説いた。それが発展して、中国・日本では法相宗(ほっそうしゅう)となった。唯識説の系統から論理主義的な知識哲学が成立した。

仏教論理学(バラモン教系統の古い論理学を「古因明」と呼ぶのに対して、これを「新因明」と呼ぶ)を確立したのは、陳那(じんな、ディグナーガDignāga)であるが、法称(ほっしょう、ダルマキールティDharmakīrti)がこれを大成した。因明は部分的に中国・日本に伝えられ、特に奈良で研学された。三二〇年にグプタGupta王朝が成立し、全インドにわたる集権的な国家体制が確立するとともに、ヒンドゥー教が盛んになったので、仏教も次第にそれに影響されて、ヒンドゥー教的なものに対し妥協適合をせざるを得なくなった。おそらく西ローマ帝国の滅亡に伴う海外貿易の衰退は、インドにおける商業資本の社会的勢威を衰退させ、農村に基盤をおくバラモン教ないしヒンドゥー教を優勢ならしめることとなった。そこで仏教もそれと妥協して真言密教(金剛乗Vajrayānaともいう)を成立させた。民衆の間で行われている多数の呪法を採用し、呪文(陀羅尼dhāra唱えて攘災招福を行なった。根本の仏としては大日如来を想定し、人間の感情欲望を肯定して、即身成仏を期した。それはまた仏教の堕落をひきおこし、密教はヒンドゥー教のうちに没入してしまう傾向があった。十一―十三世紀にわたるイスラム教徒のインド征服とともに、仏教はインドからほとんど消滅してしまった。しかしラダク・ネパール・ブータン・チベット・モンゴル・中国・ベトナム・朝鮮・日本の仏教は圧倒的に大乗仏教を受けている。

[参考文献]

中村元『インド思想史』(『岩波全書』)、竜山章真『インド仏教史概説』、平川彰『インド仏教史』

(中村 元)



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かつての日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密や、密教を導入した天台宗での台密を指したが、インドやチベットにおける同種の仏教思想の存在が認知・紹介されるに伴い、現代ではそれらも合わせて密教と総称するようになっている。今日の仏教学は一般に密教を「後期大乗」に含めるが、後期大乗と密教とを区別しようとする立場もある。(wiki)


独立の組織をもった密教の教団が、インド佛教の中で形成されていたという証拠はない。従来、密教を、部派佛教、大乗佛教に対して特異な存在として、インド佛教の中で別個に位置づける方式が一般化していた。外国の学者は、密教のことを、タントラ佛教 (tantric buddhism) とか、金剛乗 (vajrayāna)と呼ぶ。タントラ佛教とは、一般の佛教に対してタントリズムの要素をもつ特殊な佛教の形態をいい、金剛乗とは小乗 (hinayāna) と大乗(mahāyāna)に対して第三の乗を意味する言葉である。ところが最近の研究では、密教を救団組織でも、思想史的にも、大乗佛教と分離した存在とは考えず、大乗佛教の一部として取り扱う傾向が定着した。(松長有慶「密教」PDF