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2021年4月18日日曜日

プッタタートによる「涅槃・空・縁起」の再解釈


前回その断片を引用した浅見靖仁氏の「日本仏教の再「大乗」化のための処方箋」には、1993年に87歳で亡くなったタイの仏教僧プッタタートの思想が紹介されている。涅槃・空・縁起の再解釈としてとてもよい話なので、ここに引用抽出する。


プッタタートは涅槃とは「自我」または「自性」が「空」であることを深く実感できている状態だと定義する。そして「自性」が「空」であることを理解するためには、すべてのものが関係し合っていることを理解する必要があると主張する。そこに全く何もないから「空」なのではなく、そこにあるものが他のものすべてとつながりあい、関係し合っているから、それをそのものとしてだけ認識しようとすればそれは「空」となるというのである。


プッタタートによる「縁起」と「涅槃」のこのような再解釈は、タイの僧侶や一般信徒の行動に大きな変化を迫るものとなった。従来のタイ仏教では、ある人が貧しいのは、前世の行いに原因があるとされ、それへの対処法としては、前世の悪行の悪影響を何らかのまじないで取り除くか、または今世での不遇は運命とあきらめて、とりあえず今世ではせっせと寺に寄進でもして功徳を少しでも積んで来世に期待するといったことが考えられるだけだったが、縁起が今世で完結するものということになると、ある人が貧しいのはこの現世のどこかにその原因があることになるのである。


プッタタートは、さまざまな問題や苦しみは相互関係性の本来あるべき微妙なバランスが崩れたときに生じると考える。ある木が枯れる時、その直接的な原因はその木の内部の生物学的バランスが崩れたことにあるかも知れないが、その木の内部の生物的バランスが崩れた原因はその木の周辺の生態系のバランスが崩れたことにあるかもしれない。またある人が悩み苦しんでいるとき、その直接的な原因はその人の心のバランスが崩れたことにあるであろうが、その人の心のバランスが崩れた原因はその人を取り巻く人間関係や社会の構造に問題があるからかもしれない。


このように考えると、社会的に恵まれない立場にある人たちの境遇は、彼らが寺に寄進などをして功徳を積むことによってではなく、彼らを取り巻く経済的、社会的、政治的な関係を変えていくことによってこそ改善されることになる。社会問題に目をつむって一人山寺にこもって瞑想することによって、ある種の「涅槃」の境地を感じることができたとしても、そのような「涅槃」はさして意味のあるものではないとプッタタートはいう。本当の「涅槃」の状態においては、利己心はなくなり、無我とならなくてはならない。本当に無我の境地に至った者にとっては、まだ多くの人が苦しんでいる中にあって自分一人だけ苦しみから解放されても、そのこと自体は何の意味もないことだというのである。ある人が他の人よりも先に「涅槃」または「涅槃」に近い境地に達することに何らかの意味があるとすれば、それはその人が「涅槃」に近づいたことが、社会全体、そして人間社会をも含めた生態系全体の本来あるべきバランスを回復、維持することに何らかのかたちで貢献できる場合においてであるとプッタタートは考える。


そしてそのような本当の涅槃の方向に進むためには、他のことに関心をもたずにただひたすら快適な環境の下で三昧(サマーティ)や止観(ウィパッサナ)をすることよりも、他の人々のために汗を流して働くことの方がずっと意味があることであり、三昧や止観は他の人々のために働きながらでも行うことができるし、またそうすべきであると説いた。またこの世の中のものすべてが互いに関係し合っていることを理解するためには、自然をよく観察して、さまざまな生き物がいかに互いに関係し合って全体として微妙なバランスを保ちながら共存しているかを知ることが非常に重要であるとして「自然に学ぶ」ことも推奨した。寺の中だけに龍もって自らの解脱のことだけに執着している僧侶よりも、他の人のために我を忘れて熱心に働いている社会活動家や生態系のバランスを守ることに努めている環境保護活動家の方がブッダの教えに忠実にしたがっているのであり、彼らの方が涅槃の境地にもより近いところまで行けるともプッタタートは述べている。


このようにプッタタートの思想は、仏教が僧侶以外の一般信徒に対してどのような意味を持つことができるかを強く意識したものとなっている。〔・・・〕プッタタートの著作のいくつかは英語に訳され、欧米の仏教徒たちにも大きな影響を与え、ベトナム人僧侶のティク・ナット・ハンとともに、英語でエンゲイジド・ブディズムと総称される新しい仏教運動の思想的源流の一つにもなっている。(浅見靖仁「日本仏教の再「大乗」化のための処方箋」2004年、PDF




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私はこの話を読んで、柄谷行人が仏教の「空」をゼロ記号としつつ、カントの超越論的主観と結びつけているのを思い起こした。



「構造」はそれを統合する超越論的主観を暗黙に前提としている。しかし、構造主義者がこうした「主観」なしにすませうるのみならずそれを否定しうると考えたのは、彼らが、存在しないが体系を体系たらしめるものを想定したからである。それが、ゼロ記号である。たとえば、ヤーコプソンは音韻の体系を完成させるためにゼロの音素を導入した。《ゼロの音素は、……それが何らかの示差的性格をも、恒常的音韻価値をも内包しないという点において、フランス語の他のすべての音素に対立する。そのかわり、ゼロの音素は、音素の不在を妨げることを固有の機能とするのである》(R.Jakobson、1971)。

このようなゼロ記号はむろん数学から来ている。ブルバキによって定式化された数学的「構造」とは、変換の規則である。それは形のように見えるものではなく、見えていない働きである。変換の規則においては、変換しないという働きが含まれなければならない。ヤーコブソンによって設定されたゼロの音素は数学的な可変群における単位元に対応するものだといってよい。それによって、音素の対立関係の束は構造となりうる。レヴィ=ストロースがヤーコブソンの音韻論に震撼されたのは、それによって多様で混沌としたものが秩序的であることを示すことが可能だと考えたからである。《音韻論は種々の社会科学に対して、たとえば核物理学が精密科学の全体に対して演じたのと同じ革新的な役割を演ぜずにはいない》(『構造人類学』)。レヴィ=ストロースは、クライン群(代数的構造)を未開社会の多様な親族構造の分析に適用した。ここに、狭義の構造主義が成立したのである。


だが、ゼロ記号とは、それ自身は無でありながら体系性を成立させるような「超越論的主観」の言い換えなのであって、それを取り除くことではない。ゼロは紀元前のインドで、算盤において、珠を動かさないことに対する命名として、実践的・技術的に導入された。ゼロがないならば、たとえばニ○五と二五は区別できない。つまりゼロは、数の「不在をさまたげることを固有の機能とする」(レヴィ=ストロース)のである。ゼロの導入によって、place-value-system(位取り記数法)が成立する。だが、ゼロはたんに技術的な問題ではありえない。それはサンスクリット語においては、仏教における「空」(emptiness)と同じ語であるが、仏教的な思考はそれをもとに展開されたといっても過言ではない。ドゥルーズは、「構造主義は、場所がそれを占めるものに優越すると考える新しい超越論的哲学と分かちがたい」(「構造主義はなぜそうよばれるか」)といったが、place-value-system(位取り記数法)において、すでにそのような「哲学」が文字通り先取られているといってもよい。この意味で構造主義はゼロ記号の導入とともにはじまったのだが、構造主義者自身はその哲学的含意について考えなかった。たんに、彼らはそのことによって、主観から始まる近代的思考を払拭しえたと信じた。だが、主観なしにすませると思いこんだとき、彼らは暗黙に主観を前提としていることを忘れたのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)




実際、カントの《超越論的主観は自らの述語である思考によってのみ認識される》のであり、涅槃は、他者への行為によってのみ意味があるとするプッタタートの空とよく似ている。


思惟するこの自我、あるいは彼、あるいはそれ(物)によって表象されるのは、もろもろの思考の超越論的主観=X [das transzendentale Subjekt =x] に他ならない。この超越論的主観は自らの述語である思考によってのみ認識される。またこの超越論的主観については単独には我々は決していささかの概念も持ち得ない。だから、我々はこの主観をめぐって絶えざる循環のうちをさ迷わねばならい。というのも、この超越論的主観について何かあることを判断するためには、我々はつねにすでにこの超越論的主観の表象を用いなければならないからである。これが、自我の表象から分かちえない不都合さである。(カント『純粋理性批判』)



柄谷はこの超越論的主観をマルクスのアソシエーションに結びつけているーー《アソシエーションは〔・・・〕、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。》(柄谷行人『トランスクリティーク』)


柄谷=マルクス観点では、浅見靖仁=プッタタートの《社会全体、そして人間社会をも含めた生態系全体の本来あるべきバランスを回復》とは、資本主義という生態系を撹乱するシステムからの脱却である。



自由でアソシエートした労働への変容[freien und assoziierten Arbeit verwandelt]…もし協同組合的生産[genossenschaftliche Produktion ]が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度 [kapitalistische System ]にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体[Gesamtheit der Genossenschaften ]が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー [beständigen Anarchie]と周期的変動 [periodisch wiederkehrenden Konvulsionen]を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるコミュニズム [ "unmögliche“ Kommunismus]」 以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)



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さらに付け加えればーーポジ面ではなくネガ面を提示することになるがーー、ラカンの主体の穴自体、プッタタートの空と似ているところがあるのかも知れない(ラカンの穴は基本的にはフロイトの引力と等価である)。


現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

現実界は全きゼロの側に探し求められるべきである。Le Reel est à chercher du côté du zéro absolu(Lacan, S23, 16 Mars 1976



ラカンはこの《主体の穴 le trou du sujet》にほぼ相当するものを、ゼロ[zéro]以外に、空虚[vide]、無[nihil]、空胞[vacuole]、あるいはフレーゲ起源の空集合[ensemble vide]等とも呼んでいる。


とはいえ用語の近似性だけで単純に仏教の空と結びつけるのは今は慎まなければならない。究極的には、穴はフロイトの死の欲動にかかわるのだから。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)