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2021年4月26日月曜日

中心の空洞に向けての祈り



――Kさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね? たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。ギー兄さんの、なかになにもないかも知れない繭というのも、「中心の空洞」ということで、いかにも日本人的な信仰のかたちなんだろうか?


――「中心の空洞」ということを考えるとして、それが本当に日本人固有なものかねえ。量子力学にしてからがその直喩に立っているんじゃないの? それならばヨーロッパにあり、アメリカにあり、またアジアの人間も共有する、というもので……

ともかく私は繭の「中心の空洞」に集中するとして、もっと通りの良い言葉でいえば、それに向けて祈るとして、いつまでもそこからなにも現れないままで、決して不都合だとは考えないと思うよ。「中心の空洞」に向けて祈りを集中しているとして、人間の側の営為として、いまの私にはどんな不協和音も兆してこないよ。


――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈るんだろう?  とあきらかに今度はゲームのようにでなく、ザッカリー・K・高安は尋ねた。


――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう?  ……まあ、そのように感じて、祈る者や祈らぬ者や、お互いをキョロキョロ見交わすのが、私たちの集会の出発点かも知れないなあ。


――僕はギー兄さんの考え方を、無神論のカテゴリーに、あるいは人間的なニヒリズムに、つまり若いころのKさんみたいな、実存主義者のものに分類するけれども、とザッカリー・K・高安はいった。しかし、そういう考え方の連中がなお教会を建てるということに、僕は関心を持たないではいられないね。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)







モノ=享楽の空胞  [La Chose = la vacuole de la jouissance](Lacan, S16, 12 Mars 1969)


モノは母である。das Ding, qui est la mère (Lacan,  S7 16 Décembre 1959)

セミネールVIIに引き続く引き続くセミネールで、モノは対象aになる。dans le Séminaire suivant(le Séminaire VII), das Ding devient l'objet petit a. ( J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un - 06/04/2011)

母は構造的に対象aの水準にて機能する。C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).  (Lacan, S10, 15 Mai 1963)


享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

喪われ対象aの形態…永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である。la forme de la fonction de l'objet perdu (a), […] l'origine[…] il est à contourner cet objet éternellement manquant. (ラカン、S11, 13 Mai 1964)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)


対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにあるconfiguration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.   (Lacan, S16, 12 Mars 1969)


欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である。der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance》.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

ーー《モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)


反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD].   〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。[conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD.]  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)








あの青い空の波の音が聞こえるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい


ーーかなしみ   谷川俊太郎


空の青さをみつめていると

私に帰るところがあるような気がする


ーー六十二のソネット「41」