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2021年4月26日月曜日

神なんかこの世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えるのが宗教家の義務ちゅうもんや


ラカンの同時期の三つの発言を純粋にーー文字通りにーー読んでみよう。


女というものは存在しない。女たちはいる。だが女というものは、人間にとっての夢である。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)

問題となっている女というものは、神の別の名である。その理由で女というものは存在しない」のである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女というものだということである。C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  (ラカン, S23, 16 Mars 1976)


ーー女というものを神に置き換えれば、「神は存在しない。神たちはいる。だが神は人間にとっての夢である」となる。


夢というのは妄想のことだ。


フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。

Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)


すなわち人はみな女というものを妄想する。あるいは神を妄想する。

実際、人間の歴史とは女というものの妄想、神というものの妄想の歴史だ。


女というものは存在しない。しかし存在しないからこそ、人は女というものを夢見るのです。女というものは表象の水準では見いだせないからこそ、我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を撮って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。[La femme n'existe pas, mais c'est de ça qu'on rêve. C'est précisément parce qu'elle est introuvable au niveau du signifiant qu'on ne cesse pas d'en fomenter le fantasme, de la peindre, d'en faire l'éloge, de la multiplier par la photographie, qu'on ne cesse pas d'appréhender l'essence d'un être dont,](J-A. MILLER, エル・ピロポ El Piropo , 1979年)


ーー《幻想的とは妄想的のことである。fantasmatique veut dire délirant. 》(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


すなわち「われわれは神について妄想し、神の絵を描き、賛美し、その本質を探ろうとしてきた」。


ところでラカンの冒頭の文の《女というものは存在しない。女たちはいる。[La femme n'existe pas. Il y des femmes,》の女たちとはなにか。


これは、ひとりの女の複数形だ。すなわちひとりの女はいる。


ひとりの女は異者である。 une femme […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


そして不気味なものとは、フロイトにとって最も親密だが外部にあるものである。この不気味なものは究極的には女性器、より厳密にいえば母胎である。


女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 


しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat.


「愛は郷愁だ」とジョークは言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort,


そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen. 


したがっての場合においてもまた、不気味なものはこかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。


Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)



以上、神は女陰である。これは隠された常識だよ。


ニーチェの多神教的言葉たちもこの文脈のなかで読むことができる。


神性はある。つまり神々はある。だが神はない。"Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年)

私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない。Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt... (ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente, PDF

神は至高の力である。これで充分だ![Gott die höchste Macht - das genügt! ](ニーチェ遺稿、1987)

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)



つまりは「神とは女陰への意志である」と。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



ボクは高校時代、マタイの第63曲B《まことに、彼は神の子であった。"Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen"》の一分間の合唱に徹底的にイカれて、オチンチンをゴシゴシやって?恍惚に耽ってばかりいたが、「まことに、ボクはオメコの子であった」のである。


フロイトラカンの不気味なものーー最も親密で外部にあるものーーとは結局、アクグスティヌスの次の二文だ。


汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり(tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo   (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones)

われら糞と尿のさなかより生まれ出づ inter faeces et urinam nascimur (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones)


これは事実上、まともな作家だったらそれが無意識であっても感知している。


それが「中心の空洞に向けての祈り」で示したことであり、「あたしは神よ」でも示している。


とはいえ真のーーまともなーー精神分析家がこういったことをあまり言わないのは、神を妄想することはブラセボ効果があるからだろう。


ここで野坂昭如を引こう。


「男どもはな、別にどうにもこうにもたまらんようになって浮気しはるんとちゃうんや。みんな女房をもっとる、そやけど女房では果たしえん夢、せつない願いを胸に秘めて、もっとちがう女、これが女やという女を求めはんのや。実際にはそんな女、この世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えたるのがわいらの義務ちゅうもんや。この誇りを忘れたらあかん、金ももうけさせてもらうが、えげつない真似もするけんど。目的は男の救済にあるねん、これがエロ事師の道、エロ道とでもいうかなあ。」(野坂昭如『エロ事師たち』1968年)


すなわち、「神なんかこの世にいてへん。いてえへんが、いてるような錯覚を与えるのが宗教家の義務ちゅうもんや」。



われわれがそうであるものより高い存在を創造することが、われわれのエッセンスである。われわれを超越せよ! これこそ生殖の欲動である。Ein höheres Wesen als wir selber sind zu schaffen, ist unser Wesen. Über uns hinaus schaffen! Das ist der Trieb der Zeugung, (ニーチェ遺稿、 1882- Frühjahr 1887 )




………………


※付記


◼️シャーマンのブラセボ効果

「王と雨司と医師とが同じ時代があった」と人類学者フレーザーの言にあった。(中井久夫「家族の深淵」1991年)


呪術を司る者たちが,その法外な主張を信じて疑わない社会において重要で支配的な地位に立つのは必然であり,呪術師たちのうちのある者が,民衆から受ける信頼と民衆を圧する威厳の力によって,盲信的な大衆に対して至上権を振うようになるとしても不思議ではない。しばしば呪術師が酋長や王にまで成長発展したことは明らかな事実である。〔・・・〕


スワビアのいくつかの地域においては、懺悔の火曜日に鉄ひげ博士が病気の人から血を取るふりをするが、その人はそこで死者のように地に倒れる。しかし最後にはその医者が、彼に管で空気を吹き入れることによって彼を回復させる。医者によって生き返らせられるのである。(フレーザー『金枝篇』)


精神科治療者の先祖は、手軽な治療師ではない。シャーマンなど、重い病気にいのちがけで立ち向かった古代の治療者である。(中井久夫『看護のための精神医学』 2004年)

一般に治療文化において、患者とその家族は、治ってきたということ以外というか以上というか、治療費と家族の分担した治療努力とに対する反対給付をもとめるものである。それは、理由の解明あるいは治療の証拠である。歯科医は抜歯した歯を患者にみせる。外科医も切断した虫垂をみせる。精神医学的治療文化においては、最初期から「見せる物」に腐心してきた。シャーマン文化においては、ボアスの報告するカセリドというシャーマンは血まみれのミミズを口からだして、これを病いの原因として提示することによって乗り切っている。むろん、ミミズを口中にふくんだ上で口腔粘膜のどこかを自分で噛み切ったわけだ。精神医学という、治療にかんしてもっともあいまいな医術において「洞察」という治癒の証拠を発見したことは、力動精神医学の重要なポイントであった。すくなくとも「理由」を重視するヨーロッパ文化の下位文化としての精神医学的治療文化には要石である。それだけでなく患者と治療者との相互作用性を回復した。これなくしては、いかに「人道的」な精神病院も患者の排除というそしりを完全には免れることはできないだろう。治療文化はシャーマニズムのごとく重要な成員として患者をふくむのであって、そうでなければ、治療文化として大いに欠けるところがある。(中井久夫『治療文化論』1990年)


ちょっと芝居っ気がありすぎるかもしれないけれど、処方が新しくなるときの私は「効きますように」といって渡します。そのとき片手で軽く祈ることもあります。ご承知のように、向精神薬のプラセボ効果は30パーセントであり、薬効はそれに10パーセントかそこらを上乗せするわけですから、この「効きますように」は無意味ではないと思います。(「中井久夫患者に告げること、患者に聞くこと」2007年『日時計の影』所収)

彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…(ソレルス『女たち』)


もちろんファルスとはソレルスの年配の友人ラカンがモデルである。