ここでは加藤周一の『日本文学序説』の冒頭を引用するが、その前に、丸山真男、大江健三郎、柄谷行人の言葉を並べておこう。
私は自分では研究者仲間からディレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広いほうだと思ってますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。加藤君の守備範囲が広すぎるのではなく、日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(或は攻略範囲)が狭すぎるから余計目立つのです。(丸山真男「文学史と思想史について」『加藤周一著作集』第5巻附録 月報, 1980年5月)
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私は(中略)尊敬する学者、文学者が亡くなられると、つねにというのではありませんがイジケる心を奮い立たせて、それらの人の全著作を読むということをしてきました。それが、まともな学問をしないで仕事を始めた私には、方向性のある読書を続ける手法になります。むしろどうしても、かれらを読み直したい、ノースロップ・フライの定義のre-readしたい、と思いつめてのことでもあります。
そのようにして、私は渡辺一夫先生の全著作を十年間読んでいました。この五年ほどは敬愛する友人であったエドワード・W・サイードの本をそうしました。加藤周一さんが亡くなられると、まず『日本文学史序説』から読み直し始めています。その各章の、四つか五つの小見出しを、毎朝ひとつずつ読んできました。続けて読む日もあり、八十ほどの区分を読み終えたところです。それから別の本に移るつもりです。『日本文学史序説』は、文学史というよりむしろ文化史だ、という、確かに敬意のこもったものですが、優れた文学研究者による批判があり、マスメディアの「知の巨人」という、これも妥当な加藤さんへの評価とあいまって、それが定説となっているようでもあります。
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加藤さんの、「万葉集の時代」から四つの転換期をきざんで今日にいたる、広範で一貫した把握は、その通り比類のない日本文化史であろうと思います。しかもこの本は、まことにこまやかに文学史として書かれていると私は受けとめています。自分の思いには、具体的にお示しできる根拠があります。
この本で加藤さんは、空海から菅原道真、徂徠から近松という仕方で詩人、散文家たちの作品の実例を引きながら、そのいちいちが、日本文学史をつうじてどのように優れたものかをいわれます。たとえば《白石と西鶴は、言葉ではなく、現実へ向かうことによって、無類の散文を書いたのである。》というふうに。ここで重要なのは「無類の散文」という最上級の評価です。
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近代、現代まで跳びましても、露伴、鏡花の、白鳥、石川淳の文学についてそうであり、さらに幸徳秋水、河上肇の文体についてそうです。アカデミズムの世界で慎重であり、マスコミに対して賢明である文学史家なら、その使用を注意深くコントロールするはずの最高の賞め言葉が、しかしリアルな内容をこめて豊かに散りばめられているのが、『日本文学史序説』です。それは私ら、この国の文学史の、もっとも不毛な時期にいるのかも知れない後進にも、確かなものの、ある先端になんとかつらなりうるかも知れない、という落ち着きの感情をあたえます。
それに加えて、この本の全体に流れている女性的なものへの尊敬と、ユーモラスなものへの敏感さは、ますます新しい読者を引きつけ続けるでしょう。…(大江健三郎弔辞「お別れの会」2009年2月21日)
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柄谷)たとえば、加藤周一だってなかなかいいんです。
中上)加藤さんは、文芸批評とか文芸雑誌には出てこないけど、やっぱり、どうしても必要なんだと思う。
柄谷)彼の『日本文学史』はいいよ。(柄谷行人&中上健次『小林秀雄をこえて』所収、1979年)
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◼️『日本文学史序説』冒頭近くより
日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰り返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる。 〔・・・〕
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外来の世界観の代表的なものは、第一に大乗仏教とその哲学、第二に儒学、殊に朱子学、第三にキリスト教、第四にマルクス主義であった。この順序は、必ずしも厳密に、 年代の順序ではない。仏教と儒教は、おそらく同時に、六世紀の中頃に輸入された。しかしそれぞれの世界観が日本文化に圧倒的な影響を及ぼした時期は、仏教のほうが儒教の場合よりも早い。仏教は、七世紀から十六世紀までの文化の背景として、重きをなした。儒教の影響は早くから現れて、十四、五世紀以降いよいよ強まったが、体系的な世界観としての宋学の影響が決定的になったのは、十七世紀以降である。キリスト教は、 十六世紀後半と十九世紀末・二十世紀前半の、マルクス主義は両大戦間の知識層に大きな影響をあたえた。 〔・・・〕
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中国の伝統的な世界観は、インド・西欧の場合と異り、此岸的であった(老荘もその例に洩れず) 。日本に印度の影響が及んだのは、中国文明を介してであり、西洋の影響が及んだのは、後の時代になってからの事である。したがって中国的世界観の此岸性は、 日本の土着の文化の此岸性を保存するのに役立ったはずだろう。おそらく東アジアの文明の全体について、その思想的特徴は、中国の場合にも、日本の場合にも、共通の此岸的性格であるといえるのかもしれない。 (加藤周一『日本文学史序説』1975年)
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もっとも中国文化は日本ほどは此岸的ではない。それは以下に長く引用する文から読み取れる。少なくとも《中国的伝統のなかでは、包括的体系への意志が、宋代の朱子学にも典型的なように、徹底していた》が、《日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである》とは、現在に至るまで疑いようもない日本文化の特徴だろう。あまりにも大きくーーときに無惨にーー外来の体系の「日本化」がなされているのは、ほとんどすべての哲学から宗教・イデオロギーまで同様であり、それは形骸化、あるいは骨抜きと呼んでみたくなる日本的現象に他ならない。
| 日本文学の特徴について
西洋や中国の文学と比較すると、日本文学には、いくつかの著しい特徴がある。その特徴は、第一に、文化全体のなかでの文学の役割に係り、第二に、その歴史的発展の型に係っている。さらに第三には、言語とその表記法、第四に、文学の社会的背景、第五に、その世界観的背景に係る。そういう特徴相互の関係を検討すれば、時代を一貫して日本文学という現象に固有の構造(の少なくとも一つの模型)が、あきらかになるだろう。その構造の枠組のなかで、時代と共に変ってきた日本文学の歴史は、秩序だてて叙述されるにちがいない。同時的構造を仮定することは、通時的発展のなかに秩序を見つけるための前提である。
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文学の役割
日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である。各時代の日本人は、抽象的な思弁哲学のなかでよりも主として具体的な文学作品のなかで、その思想を表現してきた。たとえば『万葉集』は同時代の仏教のどんな理論的著述よりも、奈良時代の人間のものの考え方をはるかに明瞭にあらわしていたといえるだろう。摂関時代の宮廷文化は、高度に洗練された和歌や物語を生みだしたが、独創的な哲学の体系をつくり出しはしなかった。鎌倉仏教は、おそらく徳川時代の儒学の一部分と共に、日本史の例外である。しかし法然や道元の宗教哲学は、その後体系として完成されたのではないし、仁斎や徂徠の古学は、その後の思想家に大きな影響をあたえたけれども、より抽象的であり包括的な思惟を生みだしたのではない。日本の文化の争うべからざる傾向は、抽象的・体系的・理性的な言葉の秩序を建設することよりも、具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、言葉を用いることにあったようである。
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他方、日本人の感覚的世界は、抽象的な音楽においてよりも、主として造形美術、殊に具体的な工芸的作品に表現された。たとえば摂関時代の芸術家は、仏像彫刻と絵巻物に、そのおどろくべき独創性を発揮していた。しかし声明や雅楽に、日本人の独創がどの程度まで加えられていたかは疑わしい。たしかに室町時代は能の、徳川時代は浄瑠璃の音楽をつくったが、一度つくり出された音楽的様式のその後の発展は、わずかなものにすぎなかった。室町時代に水墨画をとり入れ、狩野派を発展させ、一方では南画に到り、他方では大和絵の系統を融合させながら、琳派の絢爛たる開花に及び、遂に浮世絵木版を生んだ絵画の歴史とはくらべることができないだろう。日本の文化は、ここでも、楽音という人工的な素材の組合せにより構造的な秩序をつくり出すことよりも、日常眼にふれるところの花や松や人物を描き、工芸的な日用品を美的に洗練することに優れていたのである。
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文化の中心には文学と美術があった。おそらく日本文学の全体が、日常生活の現実と密接に係り、遠く地上を離れて形而上学的天空に舞いあがることをきらったからであろう。このような性質は、地中海の古典時代や西欧の中世の文化の性質とは著しくちがう。西洋にはやがて近代の観念論にまで発展したところの抽象的で包括的な哲学があり、またやがて近代の器楽的世界にまで及ぶだろう多声的音楽があった。中世の文化の中心は、文学でも、工芸的美術でもなく、宗教哲学であり、その具体的表現としての大伽藍である。絵画・彫刻は、その伽藍を飾り、「ミステリー」はその前の広場で演じられ、音楽はその内側に鳴り響いていた。同時代の日本では、仏教の盛時にさえも、美術が仏教とばかりではなく、世俗的な文学とむすびつき、音楽も宗教的儀式というよりは、劇や世俗的な歌謡の言葉と連なっていた。日本の文学は、少なくともある程度まで、西洋の哲学の役割を荷い(思想の主要な表現手段)、同時に、西洋の場合とはくらべものにならないほど大きな影響を美術にあたえ、また西洋中世の神学が芸術をその僕としたように音楽さえもみずからの僕としていたのである。日本では、文学史が、日本の思想と感受性の歴史を、かなりの程度まで代表する。
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もちろん中国では、文学と美術(殊に絵画)との関係が書を介して、しばしば密接不可分であった。音楽もまた文学から独立して西洋でのような器楽的発展を遂げたのではない。そのかぎりでは、日中文化の間に、一方から他方への影響を別にして考えても、少なくとも表面上の類似がめだつ。中国はすぐれて文学の国であった。しかし二つの文化が決定的にちがうのは、中国的伝統のなかでは、包括的体系への意志が、宋代の朱子学にも典型的なように、徹底していたということである。朱子学的綜合は、日本では到底成立するはずがなかった。ということは、また、徳川時代のはじめに幕府の公式の教学として採用された宋学が、一世紀足らずの間に日本化されたことからも知られる。日本化の内容は、まさに包括的体系の分解であり、形而上学的世界観の実践倫理と政治学への還元ということであった。
中国人は普遍的な原理から出発して具体的な場合に到り、先ず全体をとって部分を包もうとする。日本人は具体的な場合に執してその特殊性を重んじ、部分から始めて全体に到ろうとする。文学が日本文化に重きをなす事情は、中国文化に重きをなす所以と同じではない。比喩的にいえば、日本では哲学の役割まで文学が代行し、中国では文学さえも哲学的となったのである。
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歴史的発展の型
日本で書かれた文学の歴史は、少なくとも八世紀までさかのぼる。もっと古い文学は、世界にいくらでもあったが、これほど長い歴史に断絶がなく、同じ言語による文学が持続的に発展して今日に及んだ例は少ない。サンスクリットの文学は、今日まで生きのびなかった。今日盛んに行われる西洋語の文学(伊・英・仏・独語文学)は、その起源を文芸復興斯(一四・五世紀)前後にさかのぼるにすぎない。ただ中国の古典語による詩文だけが、日本文学よりも長い持続的発展を経験したのである。
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しかも日本文学の歴史は、長かったばかりではない。その発展の型に著しい特徴があった。一時代に有力となった文学的表現形式は、次の時代にうけつがれ、新しい形式により置き換えられるということがなかった。新旧が交替するのではなく、新が旧につけ加えられる。たとえば抒情詩の主要な形式は、すでに八世紀に三一音綴の短歌であった。一七世紀以後もう一つの有力な形式として俳句がつけ加えられ、二〇世紀になってからはしばしば長い自由詩型が用いられるようになったが、短歌は今日なお日本の抒情詩の主要な形式の一つであることをやめない。もちろん一度行われた形式が、その後ほとんど忘れられた場合もある。奈良時代以前から平安時代にかけて行われた旋頭歌は、その例である。しかし奈良時代においてさえも、旋頭歌は代表的な形式ではなかった。徳川時代の知識人たちがしきりに用いた漢詩の諸形式は、今日ほとんど行われていない。しかしそれは外国語による詩作という全く特殊な事情による。新旧の交替よりも旧に新を加えるという発展の型が原則であって、抒情詩の形式ばかりでなく、またたとえば、室町以後の劇の形式にも、実に鮮かにあらわれていた。一五世紀以来の能・狂言に一七世紀以来の人形浄瑠璃・歌舞伎が加わり、さらに二〇世紀の大衆演劇や新劇が加わったのである。そのどれ一つとして、後から来た形式のなかに吸収されて消え去ったものはない。
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同じ発展の型は、形式についてばかりでなく、少なくともある程度まで、各時代の文化が創りだし、その時代を特徴づけるような一連の美的価値についてもいえるだろう。たとえば摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」――このような美の理想は、そのまま時代と共にほろび去ったのではなく、次の時代にうけつがれて、新しい理想と共存した。明治以後最近まで、歌人は「あはれ」を、能役者は「幽玄」を、茶人は「さび」を、芸者は「粋」を貴んできたのである。
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このような歴史的発展の型は、当然次のことを意味するだろう。古いものが失われないのであるから、日本文学の全体に統一性(歴史的一貫性)が著しい。と同時に、新しいものが付加されてゆくから、時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性がめだつ。抒情詩・叙事詩・劇・物語・随筆・評論・エッセーのあらゆる形式において生産的であり得た文学は、若干の欧州語の文学を除けば、他に例が少ないし、文学・美術にあらわれた価値の多様性という点でも、今日欧米以外には、おそらく日本の場合に比較する例がないだろう。清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたようにみえる。中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、激しく対決して、一方が敗れなければならない。しかし旧に新を加えるときには、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく楯の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。
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文化のあらゆる領域にこのような歴史的発展の型が成立した理由は何であったか。その問題に十分に答えることは、ここではできない。しかし文学に即していえば、その言語的・社会的・世界観的背景にあらわれたある種の「二重構造」が、少なくともさしあたりの答えをあたえることになるだろう。
二カ国語の併用と表記法とを離れて、日本語そのものについていえば、その多くの特徴のなかに、殊に文学作品の性質と密接に関連していると思われるものがある。
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第一に、日本語の文は、その話手と聞手との関係が決定する具体的な状況と、密接に関係しているということ。たとえば極度に発達した敬語の体系は、話手と聞手の社会的関係に直接に呼応している。またたとえば、主語が話手である場合、またあきらかに聞手である場合に、主語の省略されることも多い。文中の主語が明示されるかされないかは、その文が話される具体的な状況によるのである。文の構造、すなわち言葉の秩序が、具体的で特殊な状況に超越し、あらゆる場合に普遍的に通用しようとする傾向は、中国語とくらべても、西洋語とくらべても、日本語の場合、著しく制限されている。そういう言葉の性質は、おそらく、その場で話が通じることに重点をおき、話の内容の普遍性(それは文の構造の普遍性と重なっている)に重点をおかない文化と、切り離しては考えることができないだろう。その文化のなかでは、二人の人間が言葉を用いずに解りあうことが理想とされたのであり、主語の省略の極限は、遂に、文そのものの省略にまで到ったのである。またおそらく文の構造が特殊な状況に超越しない言語上の習慣的価値が状況に超越しない文化的傾向とも、照応している。たとえば酒の上の言葉は、水に流すことができる。その場合の酒は、特定の生理、心理的作用を及ぼす毒物ではなくて、社会的状況の特殊性の象徴である。過去もまた水に流すことができる。今日の状況はもはや過去の状況ではないからである。かくして日本語を駆使した文学者たちは、状況の特殊性の叙述に、その精力を傾けることになるはずだろう。その典型的な例は、短詩型の抒情詩である。おそらく世界中でもっとも短い詩、わずか一七音綴のなかに、俳諧の達人たちは、一瞬の感覚的状況を見事に固定することができた。
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第二、日本語の語順が、修飾句を名詞のまえにおき、動詞(とその否定の語)を最後におくということ。すなわち日本語の文は部分からはじまって、全体に及ぶので、その逆ではない。そういう構造は、大きくみて、中国語や西洋語と正反対であり、しかもたとえば中国大陸の影響を脱して作られた日本の大建築の構造にも反映しているのである。徳川時代初期の大名屋敷の平面図は、あきらかに、大きな空間を小空間に分割したものではなく、部屋をつないでゆくうちに自ら全体ができあがったとしか考えられないものである。その状あたかも建増しの繰返しのようにみえる。日本の建築家は、中国や西洋の建築家とは逆に、部分から出発して全体に到ろうとしたので、語順の特徴は、空間への日本式接近法にもあらわれている、といえるだろう。またたとえば丸山真男氏も指摘したように、日本の神話にあらわれた時間は、始めもなく終りもないものである。そこでは現在が、始めあり終りある歴史的な時間の全体の構造のなかに、位置づけられるのではなく、現在(部分)のかぎりない継起が、自ら時間の全体となる。歴史的時間の全体の構造というものはない。しかもそういう時間の表象は、決して神話のなかにのみ現れたのではなく、その後の時代を一貫して根本的には変らなかった。すなわち時間に対する日本式接近法も、全体から部分へではなく、部分から全体への方向をとったということができる。比喩的にいえば、日本語の語順は、日本文化の語順にほかならない。したがって日本文学にその特徴があらわれていることは当然である。
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ほとんどすべての散文作品は、少数の例外を除いて、多かれ少なかれ部分の細かいところに遊び、全体の構造を考慮することが少ない。平安朝の物語はその典型的な例である。たとえば『宇津保物語』の各章はほとんど独立していて、その相互の連関は極めて薄い。『源氏物語』には、大きくみて、全体の構造がないとはいえないが、その全体との関連において部分が描かれてというよりも、部分がそれ自身の独立した興味のために語られている場合が、圧倒的に多いのである。部分の描写は、全体のために十分だが、必ずしも必要ではない。またたとえば『今昔物語』は多くの短い説話をあつめ、説話を大まかに分類している。しかしその分類以外に全体をまとめるどのようなすじ立ても、指導的な思想もない。ただその個別的な挿話のなかのいくつかが、実に生々として、独立の短篇小説の傑作として読めるのである。
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このような日本の散文は、作品全体の構造をいくつかの型に分けて規則化した唐宋の文章や、ほとんど幾何学的な全体の秩序に極度に意識的であったフランスの一七・八世紀の古典主義文学と、まさに対極をなしている。同じことは、また、中国の説話集から材料を採り、それを書きなおした日本の説話集の書きなおし部分を検討することによっても知られるだろう。たとえば『日本霊異記』と『法苑珠林』の同じ説話の比較。『日本霊異記』は、部分の叙述において、中国の原典よりも、詳細で、具体的で、生々としている。『法苑珠林』は話のすじを語るのに、日本の書きなおしよりも、簡潔で、要領を得ている。すなわち『日本霊異記』と『法苑珠林』の背後には、根本的に異なる傾向をもった二つの文化が働いていたと察せられるのである。
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社会的背景
日本文学に著しい特徴の一つは、その求心的傾向である。ほとんどすべての作者は、大都会に住み、読者も同じ大都会の住民であって、作品の題材は多くの場合に都会生活である。たしかに地方には口伝えの民謡や民話があった。しかしそういう民謡民話が集められ、記録されたのは都会においてである。たとえば八世紀に編纂された『古事記』、殊に『風土記』は、多くの地方伝説や民謡を含んでいたが、そういう官撰の記録が、中央政府の命令によって作られたことはいうまでもない。地方を舞台にした多くの話を収録している説話集についても、『日本霊異記』から『今昔物語』を通って、「古今著聞集」や『沙石集』に到るまで、同じことがいえるだろう。
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中国では日本でのように一時代の文化が一つの都会に集中してはいなかった。大陸の文人は、国中を旅して、各地の風物を詠じている。たとえば杜甫の場合に典型的なように、唐の詩人はその吟懐を必ずしも長安の街頭に得たのではない。摂関時代の歌人が、行ってみたこともない地方の名所・歌枕を、歌につくりなしていたのとは大いに異なる。欧州の文学では、その遠心的な傾向が、中国の場合よりもさらに徹底していた。欧州の中世は、吟遊詩人の時代であり、各地の大学を渡り歩いてラテン語の詩をつくっていた学生たちの時代である。近代になっても、独・伊語の文学的活動が、一つの大都会に集中したことは一度もないといってよいだろう。パリを中心に発達した近代フランス文学は、その意味では、欧州文学のなかにおける例外である。しかしそのフランスの場合にさえも、プロヴァンスはその地方語による大詩人ミストラルを生んだ。日本の場合には、人麿以来斎藤茂吉に到るまで、地方語による大詩人はあらわれなかった。
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文学が大都会に集中する傾向は、九世紀以来、京都において徹底した。律令制権力は中央政府に集中していたけれども、奈良はまだ、経済的にも文化的にも大都会ではなかった。政府と大寺院が大陸文化の輸入の中心であったにすぎない。経済が大都会を支えるに足るところまで成長し、政治的権力の独占に文化的活動の独占が伴うようになったのは、平安時代以後である。少なくとも文学に関するかぎり、その中心としての京都の位置は、一七世紀に商業的中心としての大坂が台頭するまで、いかなる地方都市の活動によっても挑戦されなかった。一八世紀以後江戸文学がさかんになったが、そのとき文化の中心は、京都・大坂から京都・江戸へ移ったので、京都がその中心であることをやめたわけではない。そして明治以後の東京中心時代。今日なお著作家の圧倒的多数は、東京とその周辺に住み、出版社の大部分も東京に集中している。ただ読者層だけが全国的に拡がったのは、文学作品のみならず、ほとんどすべての商品について、全国的な市場が成立するようになったからである。東京が方向を決め、全国の地方がそれに従う。その意味で、文化、殊にここでは文学の求心的傾向は、江戸時代におけるよりも、今日においてさらに著しいのである。
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文学活動の中心であった大都会で、文学と係りをもった社会的階層は時代によって交替した。今かりに文学作品の創作・享受のいずれかに関与する階層を文学的階層とよぶとすれば、文学的階層の時代による交替は、日本の場合が西洋に似ていて、中国の場合と対照的である。中国の文学的階層は、「士」であった。「士」は唐・宋の昔から清朝の末まで一貫して、ほとんどそのまま高等教育を受けた中国人と同義語であり、官吏または元官吏であって、彼らだけが文学的言語を読み且つ書くことができたのである。中国の詩文は、「士」の事業であり、彼らのみの事業であった。そのことは、古典文学の形式の想像を絶した強い伝統と、その伝統に反して新しい形式や主題を発見することの困難を意味する。
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日本の文学的階層は、奈良時代にはまだ充分に固定していなかった。『万葉集』は、主として七・八世紀の歌を集めているが、その作者は、貴族ばかりでなく、僧侶・農民・兵士などであり、また無名の民衆でもあった。しかしおよそ一〇〇年の後、一〇世紀のはじめの『古今集』では、歌人の圧倒的多数が、九世紀の貴族と僧侶であった。平安時代には独占的な文学的階層が成立する。しかしそのことは、先にも触れたように、京都の支配層以外のところに、口伝えの文学がなかった、ということを意味しない。おそらくは豊富な伝説や民話や民謡があった。その片鱗は、貴族社会が収集し記録した説話集の類から、今なお推量することができるのである。
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文学的階層としての平安貴族には二つの特徴があった。その第一は、傑作を生みだした作者に、下級の貴族が多かったということ、その第二は、また女性が多かったということである。別の言葉でいえば、貴族権力の中心からではなく、その周辺部から、時代を代表する多くの抒情詩や物語が生みだされた。その理由を想像することは、困難ではない。下級貴族は、宮廷生活を観察するためには充分にその対象に近く、そこでの権力闘争にまきこまれないためには対象から充分に離れていた。地方官として地方へ赴いたときには、宮廷外の社会との接触の機会も多かったはずである。宮廷の女たち(女房)についていえば、経済的配慮、政治的野心、半公用語としての中国語の教養の必要の、いずれからも自由であって、彼らの私的な感情生活を母国語で表現するのに、甚だ好都合な立場にあった。平安時代の文学は必ずしも「女房文学」ではない。しかしこの時代の京都においてほど、女が一時代の文学の重要な部分を担ったことは、おそらく古今東西にその例が少ないだろう。(加藤周一『日本文学史序説』1975年)
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丸山真男は「もっと多くの加藤周一出でよ」、大江健三郎は「大知識人加藤周一を一人で引き継ぐことはできないが、しかしひとりひとりがそれぞれの仕方で引き継ぐことはできる」とも言ったそうだが、最後にいくらかの相対化のために浅田彰を引用しておこう。
加藤周一が89歳でとうとう亡くなったね。全共闘以後、「朝日・岩波文化人」はもう古いなんて言われたけど、若い世代が好きなことを言えたのも、規準となる文化人がいてのことだった。最後の大知識人だった加藤周一の死で、そういう規準がなくなったことをあらためて痛感させられる。実際、もはや「朝日・岩波文化人」と呼ぶに足る人なんて朝日を見ても岩波を見てもほとんどいないもん。戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。
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晩年になっても、日本料理よりは西洋料理や中華料理、それも血のソーセージみたいなものを選ぶわけ。で、食べてる間はボーッとしているようでも、いざ食後の会話となると、脳にスイッチが入って、一分の隙もない論理を展開してみせる。彼と宮脇愛子と髙橋悠治は約10年ずつ違うけれど、誕生日が並んでるんで何度か合同パーティとした、そんなときでも彼がいちばん元気なくらいだったよ。
とくに国際シンポジウムのような場では、彼がいてくれるとずいぶんと心強かった。英語もフランス語もそんなに流暢ではないものの、言うべきことを明晰に言う、しかも、年齢相応に威厳を持って話すんで海外の参加者からも一目置かれる、当たり前のことのようで実はそういう人って日本にほとんどいないんだよ。むろん、ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった。でも、先月号(2009年1月号)で触れた筑紫哲也と同様、死なれてみるとやっぱり貴重な存在だったと思うな。(「加藤周一の死」-浅田彰×田中康夫、2009年)
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浅田曰くの《ポスト全共闘世代のぼくらからすると、加藤周一は最初から過去の人ではあった》とはいくらか異なった局面においてもーー加藤周一のきわめて貴重な文化論ではなくーー、加藤周一の政治論は、日本の成長期の議論、世界の冷戦期の議論から最後まで抜け出すことができていないという印象を私は時に受けないではない。
何度も引用しているが、柄谷行人と中井久夫を再掲しておこう。
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私が気づいたのは、ディコンストラクションとか、知の考古学とか、さまざまな呼び名で呼ばれてきた思考――私自身それに加わっていたといってよい――が、基本的に、マルクス主義が多くの人々や国家を支配していた間、意味をもっていたにすぎないということである。90年代において、それはインパクトを失い、たんに資本主義のそれ自体ディコントラクティヴな運動を代弁するものにしかならなくなった。懐疑論的相対主義、多数の言語ゲーム(公共的合意)、美学的な「現在肯定」、経験論的歴史主義、サブカルチャー重視(カルチュラル・スタディーズなど)が、当初もっていた破壊性を失い、まさにそのことによって「支配的思想=支配階級の思想」となった。今日では、それらは経済的先進諸国においては、最も保守的な制度の中で公認されているのである。これらは合理論に対する経験論的思考の優位――美学的なものをふくむ――である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)
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ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。
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今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
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