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2021年4月15日木曜日

私の知らない女の過去のすべて

 こんな写真に行き当たっちまったよ。


加藤周一は1919年生まれ、杉村春子は1906年生まれであり、それぞれ52歳、65歳となるが、オッサンは老けて見えるな、既にスケベ爺って感じで。ボクは杉村春子ファンなのでチョットユルシガタイナ。




加藤周一の本質は結局「美人陰有水仙花香」じゃないかね。実は『日本文学史序説』なんかより(あれは手を広げすぎてツッコミどころが多すぎる)、『絵のなかの女たち』という小さな本ーー「日本美術文化史序説」の序説ーーのほうがずっと好きだな。




ーー人は忘れ得ぬ水仙に、偶然の機会に、出会う。

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。


 再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。


 私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)