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2021年4月5日月曜日

そう言ってるからそうではないだろう

 



私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)



前回示したこの話ってのはとっても基本的なことだよ、少なくとも精神分析にとって。ーー《自我は自分の家の主人ではない Ich […] es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause》(フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)。自我というのはフロイトにとって、リビドーの身体の心的外被[psychische Umkleidung]に過ぎない。


精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年)

精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。


そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)


エクリチュールではなくパロールだったら完全にこうだ、たとえばツイッターパロール装置の発話はほとんどすべてが「そう言ってるからそうではないだろう」としか見ていないな。蚊居肢ブログだってそうさ、とくに抑揚に富んでいたり、はずみがあったり、繰り返したり、いつも戻ってくるところがあったり、そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところがあればさ。ブログなんてあとで自分で読んで「ああ恥ずかしい!」と感じるために書くものさ。



被分析者は、忘れられたものや抑圧されたものを「思い出す erinnern」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす agieren」。人はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに(行為として)反復している ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt. 。(フロイト『想起、反復、徹底操作』1914年)



実はこの話は別に精神分析の領野の話だけではまったくない。マルクス的な交換があるところではほとんど常にそうだ。


彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es(マルクス『資本論』第1巻、1867年)

症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme, …comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX (Lacan, S18,16 Juin 1971)


広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)




で、

症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)

症状は現実界についての嘘である。Le symptôme  est un mensonge sur le réel (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses Comités d'éthique, 18/12/96)


となるな。


こう言ってもいい。


真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である la vérité est intrinsèquement de la même essence que le mensonge. …Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant  (J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

真理とは錯覚である。人が錯覚であることを忘れてしまった錯覚である。

die Wahrheiten sind Illusionen, von denen man vergessen hat,(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について」1873年)


最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である。Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall. (ニーチェ『反キリスト』第55番、1888年)