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2021年4月4日日曜日

主体と自我の相違

 

斜線を引かれた主体$、つまりラカンの主体は穴のことだよ。


現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


この穴としての主体の別名は欲動の主体だ。


主体とは、欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴である[Le sujet …rond brûlé dans la brousse des pulsions](Lacan, E666, 1960)

欲動の主体…最も根源的な欲動は、無頭の主体の様式としてある。le sujet de la pulsion … la pulsion dans  sa forme radicale,[…] comme mode d'un sujet acéphale, (Lacan, S11, 13  Mai  1964)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)



他方、自我というのは穴埋めだな。これは、以下のミレール注釈のいくつかを混淆させればそうなる。






フロイトの思考をマテームを使って翻訳してみよう。大きなAは抑圧、享楽の破棄(取り消し)である。


Chez Freud, et c'est ce que j'avais traduit, en son temps, par le mathème suivant : grand A refoulant, annulant la jouissance. 


フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである。


Ce schéma, en termes freudiens, grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça. Et de plus, chez Lacan, ça comporte qu'il y a une partie non annulable, petit a, 〔・・・〕


フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する。

ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime : 


すなわち、症状は自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である。

le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle. 〔・・・〕


これは「抑圧されたものの回帰」のスキーマと相同的である。そして症状の形態における「享楽の回帰」と相同的である。そしてこの固執する残滓が、ラカンの対象aである。

C'est symétrique du schéma du retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme. Et c'est ce reste persistant à quoi Lacan a donné la lettre petit a. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)




「享楽の抑圧=欲動の抑圧」とあるが、これは穴の抑圧のことだ(厳密には「原抑圧=排除」のことーー《原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe](『症例シュレーバー 』1911年)=排除された欲動[verworfenen Trieb](『快原理の彼岸』1920年)》)


そして穴の抑圧の別名は穴埋めだ。


ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。対象aは穴と穴埋めなのである[petit a est …le trou et le bouchon]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


ーー《ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet》(J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007)



享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)



主体$= (- J) も確認しておこう。

私は斜線を引かれた享楽を斜線を引かれた主体と等価とする。[le « J » majuscule du mot « Jouissance », le prélever pour l'inscrire et le barrer …- équivalente à celle du sujet :(- J) ≡ $ ] (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)


冒頭のラカンと合わしてこうなる。




したがってこう示せる





残滓は上のミレール注釈にあるように、抑圧されえない欲動の残存物(穴埋めされえない穴の残滓)。穴埋めとは欲動の昇華のことでもあるけど、残滓(a)は昇華の残り物ということ➡︎「穴の昇華


そもそも抑圧という語は、「抑圧されない=(心的装置による)翻訳の失敗」という含意が最初から最後まである。



翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、1896年)

抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う。〔・・・〕自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである。Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, […] das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)



この機制はより厳密に言えば次のような構造になっており、臨床的にはS(Ⱥ)が最も重要。





今は下の二つ[AとS(Ⱥ)]を一緒くたにして厳密さを期さないで言うが、基本的には「自我/欲動の主体」と思ってたらいいよ。


で、欲動の主体における欲動とは身体的要求のこと。


欲動は心的生に課される身体的要求である。Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


で、《身体は穴である。le corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)と引用したらピッタンコになる。




私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う。Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



ニーチェを引用する手もある。


君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」1883年)


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)



以上、「自我と身体がある」というのは少し考えてみれば当たり前のことなんだけど、ラカニアンがこのようにはあまり言わないのは、自我心理学批判から始めたラカンは、最初はイマジネールな身体[ corps imaginaire(鏡像的身体)を考えたから。このイマジネールな身体は自我の審級にある。他方、上に示してきた身体はリアルな身体のことであり、これを他の身体[autre corps]、あるいはリビドーの身体[corps libidinal]とも呼ぶ。そして《リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou》. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)。


ま、こう記してくると穴とは結局何?という話になるのかもしれないが、今はーー「究極の穴はオメコの穴だい」(?!)なんて言わずにーー心的装置外部=言語外にある表象不可能なトラウマ的なものとだけ言っておくよ、《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …ça fait « troumatisme ».]》(ラカン, S21, 19 Février 1974)。