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2021年5月22日土曜日

血みどろになつた作家


なぜ書こうとするのか。私の思考――私の思考のいっさい――がこれほど完全に、これほど見事に表現されているというのに(バタイユーー1922年、『善悪の彼岸』を読んで)


怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)



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何ものかが私を書く行為に駆り立てている、思うに、狂ってしまうことの恐怖が。[Ce qui m'oblige d'écrire, j'imagine, est la crainte de devenir fou](バタイユ『ニーチェについて』1945年)


バタイユは、けっきょく私をあまり感動させはしない。笑いや献身や詩や暴力に、私はどんなかかわりをもつのだろうか。「聖性」や「不可能」について、言うべきどのようなことが私にあるか。Bataille, en somme, me touche peu : qu’ai-je à faire avec le rire, la dévotion, la poésie, la violence ? Qu’ai-je à dire du “sacré”, de l’“impossible” ? 


ところが、このような(異者のような étranger)ことばづかいいっさいを、私が私流に《恐怖 la peur》と名づけているある障害と重ね合わせてみると、それだけでバタイユは私を征服してしまう。そうなると、彼の書くものはすべて、私を記述しているわけである。それは私に付き纏う。Cependant, il suffit que je fasse coïncider tout ce langage (étranger) avec un trouble qui a nom chez moi la peur, pour que Bataille me reconquière : tout ce qu’il écrit, alors, me décrit : ça colle (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)



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強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。


文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。〔・・・〕


芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)


或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。

僕 それは僕の責任ではない。

〔・・・〕

或声 お前はそれでも夏目先生の弟子か?

僕 僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。(芥川龍之介「闇中問答」昭和二年、遺稿)





ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。


誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。


だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。


誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。


我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。


ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。


だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。


私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。


だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。(坂口安吾『理想の女』1947年)




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※付記


◼️傷つけることを止めない記憶

「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)



◼️トラウマは書かれることを止めない

現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)



◼️自己固有の出来事は常に回帰する

人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)



◼️身体の出来事=トラウマへの固着は反復強迫する

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



◼️身体の出来事という固着は常に回帰する

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme…elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


ーー《フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である。c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance》.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)




◼️享楽の固着は常に同じ場処に永遠回帰する

享楽における単独性永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…私は、この一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.  


フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )



◼️トラウマへの固着という不変の個性刻印は永遠回帰する

トラウマへの固着と反復強迫[ als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。…これは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

同じ出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)



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◼️あなたのなかのひとつの深淵

隠遁者[Einsiedler]は、かつて哲学者ーー哲学者は常にまず隠遁者であったとすればーーが自己の本来の究極の見解を著書のうちに表現した、とは信じない。書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]。実に彼は次のように疑うであろう。およそ哲学者は“究極的かつ本来的な[letzte und eigentliche]“見解をもちうるのか、哲学者にとってあらゆる洞窟の背後に[hinter jeder Hoehle ]、なお一層深い洞窟が存し、存しなければならないのではないか、表層の彼岸に[ueber einer Oberflaeche]、より広況な、より未知の、より豊かな世界があり、あらゆる根拠[Grund]の背後に、あらゆる“根拠づけ[Begrúndung]”の背後に一つの深淵[ein Abgrund があるのではないか、と。〔・・・〕かつまた次のことは疑うべき何ものかである。すなわち「哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面 である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.]」(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)




ところで人がみなもつ究極の深淵とは何だかご存知だろうか。


ニーチェにとっては永遠の泉の深淵である。


おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか - wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」)


あるいは《死の彼岸にある永遠の悦 ewige Lust über Tod 》(「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)と要約できることも言っている。


ここで精神分析というケッタイな学問における下品な深淵を掲げておく。


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 [la tête de MÉDUSE]》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 [l'objet primitif ]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 [abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ [l'image de la mort, où tout vient se terminer] …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


「美しい魂」の方々は、是非これに対抗されたし。


通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭 Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…


完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen (ニーチェ『この人を見よ』)