数年ぐらい前までは定期的に引用を繰り返したのだけど、最近はしてないね、久しぶりに掲げておくよ、「真理は女」をね。
真理は女である[die wahrheit ein weib]と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年) |
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真理は女である。真理は常に、女のように非全体 pas toute(非一貫的)である[la vérité est femme déjà de n'être pas toute](ラカン, Télévision, AE540、1973) |
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである[la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.](ラカン, S9, 15 Novembre 1961) |
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女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は嘘であり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである[seine grosse Kunst ist die Luege, seine hoechste Angelegenheit ist der Schein und die Schoenheit. ] われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』第232番、1886年) |
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女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! ](Lacan、S18, 20 Janvier 1971) |
読み返したらこれ忘れてたな、《人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。Man hält das Weib für tief - warum? weil man nie bei ihm auf den Grund kommt. Das Weib ist noch nicht einmal flach.》(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)、これもついでにーー《女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」》(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)。や、シツレイしました。 |
真理への意志[Wille zur Wahrheit] は、いまだ我々を誘惑している。…我々は真理を欲するという。だがむしろ、なぜ非真理[Unwahrheit]を欲しないのか? なぜ不確実[Ungewissheit]を欲しないのか? なぜ無知[Unwissenheit]さえ欲しないのか?(ニーチェ『善悪の彼岸』第1番、1886年) |
生への信頼[Vertrauen zum Leben]は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛[Liebe zum Leben]はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる女への愛[Liebe zu einem Weibe]にほかならない・・・(ニーチェ対ワーグナー、エピローグ、1888年) |
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確信は嘘にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった(『人間的、あまりに人間的』第一部 四八三)。 このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、嘘と確信[Lüge und Überzeugung]のあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? ――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない!(ニーチェ『反キリスト者』第55番、1888年) |
「真理は女」とは、まずは「真理は嘘」ってことだろうよ。
でもニーチェにとってもラカンにとっても嘘ではない唯一の真理はあるよ。
要するに、去勢以外の真理はない。En somme, il n'y a de vrai que la castration (Lacan, S24, 15 Mars 1977) |
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享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977) |
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真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽である[Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance](J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014) |
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去勢という享楽のみが嘘をつかない唯一の真理だ。「享楽は去勢」を別の形で言えば、享楽とは去勢された自己身体を取り戻そうとする「生きている存在には不可能な反復運動」ということだ。真に取り戻してしまえば死が訪れるーー《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance.]》 (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)ーー。そして究極の去勢された自己身体とは母胎であるーー《去勢ー出産は、全身体から一部分の分離である。(Kastration – Geburt) um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt》(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
今のはあくまで究極の話でありーー《完全になったもの、熟したものは、みなーー死をねがう[ Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!]》 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)ーー、話を戻せば、唯一の真理としての享楽が、フロイトの欲動、ニーチェの力への意志だ。 |
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欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
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すべての欲動力(すべての駆り立てる力)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.](ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888) |
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欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番) |
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ニーチェの悦 Lüstは、ラカンの享楽、フロイトのリビドー(欲動)に置き換えうる。
ーー《悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.…すべての悦は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年) 「享楽=悦=リビドー =欲動」は、厳密さを期さなければ、「エスの力」ともすることができる。 |
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エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年) |
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いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年) |
去勢の別名は穴である。
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou〔・・・〕そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
「原抑圧」とあるが、これが去勢である。 |
原抑圧は常に去勢に関わる。refoulement originaire[…]ce qui concerne toujours la castration. (J.-A. Miller, CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987) |
原抑圧の別名は固着である。 |
抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要) |
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要) |
現代ラカン派は「原抑圧」よりも「固着」という語のほうを好む。 |
分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である[un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion.] 最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。 |
Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015) |
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身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976) |
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サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011 摘要) |
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すなわちひとりの女は穴である。この意味は、シンボリックなレベルでは「女は嘘」だが、リアルなレベルでは「女は穴=真理」だということだ。
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ーー《われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».]》 (Lacan, S15, 10 Janvier 1968)
反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]. 〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976) |
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974) |
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011) |
「サントーム=モノ=固着」とは何よりもまず、人がみなもつ原症状ということであり、《サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=フロイトの固着 Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)ーーこの身体の自動享楽のフロイトの呼び方が、無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]である。 |
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