ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』(D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?)(1897年)の左奥にいる女神は「沈黙の死の女神」なんだろうな、いままで気にしたことがなかったが。
この絵は「右から左へ」だが、「左から右へ」版はこうだ。
30歳や40歳ぐらいのときは、一般的には自極と対象極が最も離れるのだから、夢想に耽るのはやむえないと言ってもいい。イマジネールな愛の夢想とか、さらにはシンボリックな神の夢想とか。でもリアルな愛は死だ、➡︎「死は愛である」
現世の愛には真の満足は訪れない。あれは代理物に過ぎず、常に彷徨うばかりだ。最近見出した犀星の言葉通りだ、《人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか》(室生犀星『随筆 女ひと』1955年)。このフロイト版が次の文だ。
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vẻderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう[Oder die drei Formen, zu denen sich ihm das Bild der Mutter im Lauf des Lebens wandelt: ]
すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。
そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱 Das Motiv der Kästchenwahl 』1913年)
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犀星だけでなく、死の直前の古井由吉も実に「正しい」。
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生きているということもまた、死の観念におさおさ劣らず、思いこなしきれぬもののようだ。生きていることは、生まれて来た、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる。このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以後へ、本人は知らずに、超えて出る。(古井由吉『この道』「たなごころ」2019年)
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エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
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この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)
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こういった真の作家や芸術家たちを充分に感知する能力のない者のみが、精神分析に頼ればよろしい。ま、ボクは能力不足ゆえに精神分析にたよったということだ。
男はよくても胸のなかにしかアレをもっていない。女のほうが勝ちにきまっている。
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昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた(あるいはおそらくそう感じていた)。子どもは小さな死を、おとなは大きな死を自らのなかにひめていた。女は死を胎内に、男は胸内にもっていた。誰もが死を宿していた。それが彼らに特有の尊厳と静謐な品位を与えた。
Früher wußte man (oder vielleicht man ahnte es), daß man den Tod in sich hatte wie die Frucht den Kern. Die Kinder hatten einen kleinen in sich und die Erwachsenen einen großen. Die Frauen hatten ihn im Schooß und die Männer in der Brust. Den hatte man, und das gab einem eine eigentümliche Würde und einen stillen Stolz.(リルケ『マルテの手記』1910年)
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死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。
Der Tod ist die uns abgekehrte, von uns unbeschienene Seite des Lebens(リルケ「リルケ書簡 Rainer Maria Rilke, Brief an Witold von Hulewicz vom 13. November 1925ーードゥイノの悲歌について)
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精神分析[Psychoanalyse]とは訳語が悪いので「魂分析」、より厳密にいえば「魂と身体の境界分析」だよ。
Psychoanalyseは「精神」分析じゃない。プシュケーの右側、ソーマに接近した境界分析だ。
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欲動は、「魂的なもの」と「身体的なもの」との「境界概念」である。der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
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享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにあるconfiguration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. (Lacan, S16, 12 Mars 1969)
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別の言い方をすれば、各人固有の「自我とエスの境界表象S(Ⱥ)」があらゆる意味で核心。
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