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2021年5月29日土曜日

中井久夫の「原抑圧解離排除」

ああよくわかるよ、抑圧という言葉が嫌いなのは。でも「抑圧」Verdrängungというのは訳語が悪いんだ、これがフロイトの最大の不幸だ。


中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)批評空間2001Ⅲー1)


ここで中井久夫の言っている神経症の抑圧は、前回示した後期抑圧[Nachverdrängung]、分裂病の抑圧が固着としての原抑圧[Urverdrängung]だ。



前者の言語内の抑圧を「放逐=追放」とするなら、後者の言語以前の原抑圧[Urverdrängung]とは解離=排除[Verwerfung]だ。


フロイト用語では次の通り。



左項の置換と圧縮[Verschiebung und Verdichtung]はラカン用語では換喩と隠喩[la métonymie et la métaphore]だ。


欲望は換喩である[Le désir est la métonymie](Lacan, E623, 1958)

愛は隠喩である[l’amour est une métaphore,] (Lacan, S8, 30  Novembre 1960)


要するに右項(固着)の換喩と隠喩である。


フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である。c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)



中井久夫に戻ろう。

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



この「排除されたもの」がフラッシュバックを引き起こす。


解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)



フラッシュバックとは「異物」として回帰するということだ。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)




この中井久夫の一連の記述は、厳密にフロイトラカンの思考と等価である。


まずフロイトのモノ=異物(異者としての身体)である。


(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, (フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)



上でラカンはモノ=異者は分離されている [isolé]と言っているが、これは解離のことだ。そして[exclu]とも言っている。


モノはフロイトの思考においてきわめて本質的な何ものかである。『心理学草案』で使われた用語に置いては、モノは排除された内部はまた内部において排除されたものである。ce das Ding[…] est quelque chose de tout à fait essentiel …quant à la pensée freudienne.   Cet intérieur exclu qui, pour reprendre les termes mêmes de l'Entwurf, est ainsi exclu à l'intérieur, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


これが排除だ。つまりは解離=排除。フロイトは解離という語をダイレクトには滅多に使っていないが、その稀な例に《心的生の分離(解離)[Zerfall (Dissoziation) des Seelenlebens 》(フロイト、Kurzer Abriss der Psychoanalyse1928とある。


これがフロイトのモノの定義における「同化不能な」[unassimilierbaren]のことだ。


現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式の下にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン, S11, 12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)



これを確認する方法はいくらでもある。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンスréminiscenceと呼ばれるものによって。


Je considère que […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. […] Disons que c'est un forçage.  […] c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   (Lacan, S23, 13 Avril 1976)


モノはレミニサンスを引き起こす。つまり異物のレミニサンスだ。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。〔・・・〕この異物は引き金を引く動因として、たとえば後の時間に目覚めた意識のなかに心的な痛みを呼び起こす。ヒステリー はほとんどの場合、レミニサンスに苦しむのである。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß..[…] als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz […]  der Hysterische leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

ーーここでフロイトはヒステリーと言っているが、それはヒステリー研究からはじめたゆえにそう言っているのであり、後年の思考においてはすべての人間において同様である。



レミニサンスとは何か。


前回示したように次の文の抑圧は原抑圧=排除だ。


抑圧されたものは異物(異者としての身体)として分離されている。Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従うDas Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben, . (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


エスと同じメカニズムとは?


分離=排除された異物(異者としての身体 Fremdkörper)が無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]を引き起こすということだ。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。


Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって取り消されていて意識されないだけである。


Triebregung  […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)



さらにもうひとついこう。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


そしてラカンは原抑圧についてこう言っている。


原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)


この外立が排除だ。


「享楽の排除」、あるいは「享楽の外立」。それは同じ意味である。terme de forclusion de la jouissance, ou d'ex-sistence de la jouissance. C'est le même. (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un - 25/05/2011)

排除のあるところには、現実界の応答がある。Là où il y a forclusion, il y a réponse du réel   (J.-A. Miller, Ce qui fait insigne,  3 JUIN 1987)


そしてラカン自身とミレールの次の二文で最終確認できる。


私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、〔・・・〕象徴界において抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。Si j'ai parlé de forclusion à juste titre pour désigner certains effets de la relation symbolique,[…]tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, c'est bien en ça que la jouissance est tout à fait réelle. (ラカン、S16, 14 Mai 1969)

現実界のなかの異物概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


要するに前回示したようにラカンの「享楽は穴」とは、「享楽は異者としての身体」と言い換えうる。


ラカンの現実界はフロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


つまりは次の語彙群はどれに置き換えてもよろしい。




「去勢」という語を表には入れなかったが、誤解のないように付け加えておこう。


原抑圧は抑圧というより固着である。固着とは、現実界の何ものかが以前の水準に置き残されることである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

原抑圧は常に去勢に関わる。だが抑圧の様式とは別の様式に従った去勢であり、つまり排除である。refoulement originaire[…]ce qui concerne toujours la castration. mais selon un autre mode que celui du refoulement, à savoir la forclusion. (JACQUES-ALAIN MILLER , CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)


享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)


モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

モノは斜線を引かれている[“chose” est barré](J.-A. MILLER, La logique de la cure, 4 mai 1994)


ラカンが認知したモノとしての享楽の価値は、斜線を引かれた大他者(穴)と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)




ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。

The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)

フロイトに従えば、享楽と原抑圧が関係するのは大いにありうる。…つまり固着されたリビドー は死の欲動の支配を表す静止状態を意味する。Selon Freud, il est donc tout à fait possible de toucher à la jouissance du refoulement originaire.…La libido fixée implique une statique qui révèle la prédominance de la pulsion de mort. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 29/1/97)