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2021年5月3日月曜日

アンチフェミの猿たち

一年弱前、次の図を提示した。


これはラカン的には、学園紛争を契機に主人の言説(家父長制)が蒸発し、資本の言説の時代が始まったという図(底部への下降を示す)で、柄谷的に言えば、とくにそれが顕著になったのは、1990年以降だという図だ。資本の欲動とは岩井克人的に言えば、差異性の論理ということであり、主人に統御された資本の主義の時代から、ナマの資本の論理の時代への移行を示している。

資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。(岩井克人『終りなき世界』柄谷行人・岩井克人対談集、1990年)



ところで「資本の論理=差異性の論理」とはラカン的には「女性の論理」でもある。前回示したジャック=アラン・ミレールの男女比較図を再掲しよう。




ここではグレーに塗った箇所だけを話題にする。同一性の論理から差異性の論理への移行。最初は殆ど全インテリくんたちはこれはいける、世界はよくなると錯覚しちまったんだ。


この移行はミレール派(フロイト大義派)ナンバーツーのエリック・ロランにおいても次のような形で確認されている。



原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった。il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


したがって冒頭図を別の語彙群で書き直せばこうなる。




つまり現在は資本の論理の下の女性の論理の時代なのであって、アンチフェミの男性諸君がいくら女を叩いてもムダだよ。資本の論理の掌の上で踊っている猿にしか見えないね。


真にやるべきことは資本の論理としての新自由主義を叩くことだ。そして目指すべきは父の原理(支配の論理としての父ではなく統整的原理としての父)を復活させることだ。遠い道のりでそんなのヤダというなら、女の支配に甘んじることだよ。それだってなかなかいけるもんかもしれないぜ。







これはラカン的に言えば次のことだ。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


ホルクハイマー的に言えば、「資本主義について批判的に語りたくない者はフェミニズム批判についても沈黙すべき」だな、わかるかい、雄ザルくんたちよ。


資本主義について批判的に語りたくない者はファシズムについても沈黙すべきである。Wer aber vom Kapitalismus nicht reden will, sollte auch vom Faschismus schweigen." (マックス・ホルクハイマー Max Horkheimer「ユダヤ人とヨーロッパ Die Juden und Europa.」1939年)


この「資本主義=フェミニズム」は、たとえば2013年にナンシー・フレイザーが《フェミニズムはどうして資本主義の侍女となってしまったのか How feminism became capitalism's handmaiden 》という、実に説得的な記事ーー結論部分は気に入らないがーーを書いているから参照されたし。