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2021年5月3日月曜日

永遠回帰の脱神秘化について


すこし前、フロイトによるニーチェの永遠回帰の脱神秘化と記したことについて何やら言ってこられる方がいるが、これはクロソウスキーもフロイトに関係なしにやっている。


永遠回帰回帰は力への意志の純粋メタファー以外の何ものでもない。L'Éternel Retour …le Retour n'est qu'une pure métaphore de la volonté de puissance.〔・・・〕


しかし力への意志は至高の欲動のことではなかろうか?Mais la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? (クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


ほかにもドゥルーズは、フロイトの死の欲動とプルーストの無意志的記憶とニーチェの永遠回帰を『差異と反復』で事実上、等置している。



エロスは共鳴によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。


Erôs est constitué par la résonance, mais se dépasse vers l'instinct de mort, constitué par l'amplitude d'un mouvement forcé (c'est l'instinct de mort qui trouvera son issue glorieuse dans l'oeuvre d'art, par-delà les expériences érotiques de la mémoire involontaire). 


プルーストの定式、《純粋状態にあるわずかな時間 》が示しているのは、まず純粋過去 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能の形式である。


La formule proustienne, « un peu de temps à l'état pur », désigne d'abord le passé pur, l'être en soi du passé, c'est-à-dire la synthèse érotique du temps, mais désigne plus profondément la forme pure et vide du temps, la synthèse ultime, celle de l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le temps. (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)



「強制された運動」mouvement forcéとあるが、この「強制」自体、ラカンにおいてはトラウマのレミニサンスである。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制 forçage」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、「レミニサンス réminiscence」と呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる。Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration (ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要)



したがって目新しい話ではない。


……………


直接的にはまず次の表への問いを頂いている。




この表は次の二文から用語を抽出しただけである。



トラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我への傷(ナルシシズム的屈辱)である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs (narzißtische Kränkungen)]〔・・・〕


この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


この不変の個性刻印としての固着を、ラカン派では享楽の固着という。


フロイトが固着と呼んだものは、享楽の固着である。c'est ce que Freud appelait la fixation…c'est une fixation de jouissance.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)


ここでニーチェの一文を挿入してから、ジャック=アラン・ミレールの注釈を続けよう。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


次の文は上のニーチェの文と実に似ている。


享楽はまさに固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


固着の別名は身体の出来事(上のフロイト文にある「自己身体の上への出来事」)であり、トラウマである。


享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。この身体の出来事は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est […]  de l'ordre du traumatisme , du choc, de la contingence, du pur hasard,[…] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


そしてトラウマ的身体の出来事の永遠回帰がある。


享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)


単独性とは単独的シニフィアンのことであり、これが固着である。


単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…私は、この一者と享楽の結びつきが分析経験の基盤だと考えている。そしてこれが厳密にフロイトが固着と呼んだものである。je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.  (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


したがってフロイトの「トラウマへの固着=反復強迫=永遠回帰」は、現代主流ラカン派観点からも受け入れられている。



我々は、フロイトがLustと呼んだものを享楽(悦)と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (Jacques-Alain Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)

悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.


…すべての悦は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第9節1885年)




ニーチェの永遠回帰の意志としての悦(ラカンの享楽)は欲動であり、クロソウスキーの言うように力への意志である。


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888)



以上