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2021年5月26日水曜日

ダチュラ女

 


ああよくわかるよ、「女性の享楽」だな、納得できないのはわかるさ、とくに解剖学的女性にはさ。何度書いてもわかんねえというのがわかってきたよ、あの手この手で繰り返してんだが。


ムダを承知でもう一度いえば、1976年のラカンはこう言っているわけだ。


ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)


サントームとは男にも女にもある原症状だ。だから最晩年のラカンの「女性の享楽」は、1973年のアンコールセミネールの「女性の享楽」とは異なる。ミレールの言っていることは正しい。


確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


「女性の享楽 jouissance féminine」とは本来、ファルス享楽(言語内の享楽)とは異なる「女性的享楽」と訳すべき語で、身体の享楽のことだ。


サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (J.-A. Miller , L'Être et l'Un、30 mars 2011)

純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(J.-A. Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)


つまりは女性の享楽とサントームの享楽は等価である。


サントームの享楽 la jouissance du sinthome    (Jean-Claude Maleval,  Discontinuité - Continuité, 2018)

サントームという享楽自体 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)



より具体的にはサントームはフロイトの固着のことだ。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011摘要)

サントームは反復享楽であり、S2なきS1S1 sans S2](=フロイトの固着 Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)


これを簡単にいえば女性の享楽とは「固着の享楽」のことだ。


そして固着とは身体の穴にかかわる。


身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)

身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


したがって、穴の享楽[la jouissance du trou]と呼ぶラカン派もいる。


固着をめぐるラカンあるいは現代ラカン派が使う用語とフロイト用語を対比させればこうなる。



ーー反復強迫、つまり《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)



固着とは基本的には、初期幼児期においての身体の世話に伴う母によってなされるトラウマ的刻印であり、女性の享楽の「女性」に解剖学的女性の意味があるなら、まずはこの「母なる女」に関わる。


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)


それともう一つ、固着は代表的には、母の乳房への固着、さらに原点には母胎への固着がある。


女への固着 Fixierung an das Weib (おおむね母への固着 meist an die Mutter)(フロイト『性欲論三篇』1905年、1910年注)


前期ラカンは母の乳房への固着を強調した。


母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される。sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former […] ses premières fixations, (Lacan, S4, 12 Décembre 1956)


つまり乳房と母胎を抱えている解剖学的女性に「固着の享楽=穴の享楽」が男性より現れやすいのは必然だ。女性の享楽の「女性」に意味があるならこの二点であり、基本的には男女両性にある原症状が女性の享楽である。


穴の享楽の別名はモノの享楽[la jouissance de La Chose]であり、モノは固着だ(参照)。




フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は…個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)


この究極の喪われた対象が原固着の対象だ。

出産外傷[Das Trauma der Geburt]  =母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]=原抑圧[Urverdrängung]=原トラウマ[Urtrauma](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)



以上、「女性の享楽=固着の享楽=モノの享楽=穴の享楽」だ。穴とはトラウマのことであり、トラウマは反復強迫する。


サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


つまり固着は現実界であり、現実界の反復である。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lâcn, S 25, 10 Janvier 1978)


フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味し、固着する要素は無意識のエスの反復強迫に見出されると。[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は、行使されることを止めないもの[ne cesse pas de s'exercer]である.。(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)



こういうことを言うと、マジメなーー神経症的なーー日本ラカン派のボウヤたちが目を剥くから「冗談っぽくいえば」と言っておくが、股の間に穴を抱えている解剖学的女性に「女性の享楽=穴の享楽」がより多く現れるに決まってるさ。どうだい、これで納得しないかい?


もちろん男だってアソコに回帰するんだけどさ、女のほうが当然ずっと親しいんだろうよーー《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


すなわち人は常にヤチに回帰する。


むしょうに女がほしかった。股倉に手をやると、ヨシコが棒のようだった。熱い棒のようなヨシコを俺は手で握っていた。ヤチに会いたいとゴロマク(あばれる)ヨシコを俺は手でおさえつけていた。(高見順『いやな感じ』)



当たり前のことだよ、これは。ヤチの神は永遠不滅なんだからーー《谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。》(老子『道徳経』第六章)


時間はとまつてしまった

永遠だけが残ったこの時間のない

ところに顔をうずめてねむつている

「汝を愛するからだ  おお永遠よ」

もう春も秋もやつて来ない

でも地球には秋が来るとまた

路ばたにマンダラゲが咲く


ーー西脇順三郎「坂の五月」


おお、マンダラゲよ! 《私はお前を愛している 、おお永遠よ ich liebe dich, oh Ewigkeit! 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「七つの封印 Die sieben Siegel 」第6節)





マンダラゲは永遠回帰するーー《人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt. 》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


いやあこの記事書いてひとつだけタメになったことあるよ、マンダラゲ(曼陀羅華)ってダチュラのことなんだな、いまごろ知ったよ、天妙華・適意華・悦意華とも書くらしい。村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』の破壊の鍵言葉ダチュラだ。


そうか、あの一見上品そうなパクパクが穴の原理か。


破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。Le terme de ravage,…– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)



みなさん、ダチュラ女にオキヲツケヲ!


騙されてはなりません、可憐な唇に。


あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。(川端康成『雪国』)




そう、荒木経惟が千人目(?)から熟知し切ったように、エロスは常にエロトス Erotosです、ーー《タナトスの形式の下でのエロス  [ρως [Éros],  …sous la forme du Θάνατος [Tanathos],  ]》ラカン, S20, 20 Février 1973)であり、一皮剥けば、死の欲動しかありません。これは壺を千ほど開ければ、誰もがきっと実感します、もっとも開けっ放しの壺ではダメです、《閉ざされた千の壺[mille vases clos]》(プルースト『見出された時』)が肝腎です。


ゴダール、映画史、3A



溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえる〈プチット・マドレーヌ〉と呼ばれるずんぐりして丸くふくらんだあのお菓子の一つ[un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblent avoir été moulés dans la valve rainurée d'une coquille de Saint-Jacques ](「スワン家のほうへ」)


究極のレミニサンスとはマドレーヌの裂け目の回帰しかありませんーー《「真の女は常にメドゥーサ であるUne vraie femme, c'est toujours Médée(Miller)」。…女性の裂け目の享楽[la jouissance de la béance féminine]、穴の享楽[la jouissance du trou],》 (Le vide et le rien. Par Sonia Chiriaco - 30 avril 2019)