ああよくわかるよ、「女性の享楽」だな、納得できないのはわかるさ、とくに解剖学的女性にはさ。何度書いてもわかんねえというのがわかってきたよ、あの手この手で繰り返してんだが。 ムダを承知でもう一度いえば、1976年のラカンはこう言っているわけだ。 |
ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976) |
サントームとは男にも女にもある原症状だ。だから最晩年のラカンの「女性の享楽」は、1973年のアンコールセミネールの「女性の享楽」とは異なる。ミレールの言っていることは正しい。 |
確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。 だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011) |
「女性の享楽 jouissance féminine」とは本来、ファルス享楽(言語内の享楽)とは異なる「女性的享楽」と訳すべき語で、身体の享楽のことだ。 |
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (J.-A. Miller , L'Être et l'Un、30 mars 2011) |
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(J.-A. Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011) |
つまりは女性の享楽とサントームの享楽は等価である。 |
サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité , 2018) |
サントームという享楽自体 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008) |
より具体的にはサントームはフロイトの固着のことだ。 |
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サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要) |
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サントームは反復享楽であり、S2なきS1[S1 sans S2](=フロイトの固着 Fixierung)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳) |
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これを簡単にいえば女性の享楽とは「固着の享楽」のことだ。 そして固着とは身体の穴にかかわる。 |
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身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。 un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015) |
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身体は穴である。le corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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したがって、穴の享楽[la jouissance du trou]と呼ぶラカン派もいる。 固着をめぐるラカンあるいは現代ラカン派が使う用語とフロイト用語を対比させればこうなる。 ーー反復強迫、つまり《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) 固着とは基本的には、初期幼児期においての身体の世話に伴う母によってなされるトラウマ的刻印であり、女性の享楽の「女性」に解剖学的女性の意味があるなら、まずはこの「母なる女」に関わる。 |
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おお、マンダラゲよ! 《私はお前を愛している 、おお永遠よ ich liebe dich, oh Ewigkeit! 》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「七つの封印 Die sieben Siegel 」第6節) マンダラゲは永遠回帰するーー《人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt. 》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) いやあこの記事書いてひとつだけタメになったことあるよ、マンダラゲ(曼陀羅華)ってダチュラのことなんだな、いまごろ知ったよ、天妙華・適意華・悦意華とも書くらしい。村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』の破壊の鍵言葉ダチュラだ。 そうか、あの一見上品そうなパクパクが穴の原理か。
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そう、荒木経惟が千人目(?)から熟知し切ったように、エロスは常にエロトス Erotosです、ーー《タナトスの形式の下でのエロス [Ἔρως [Éros], …sous la forme du Θάνατος [Tanathos], ]》(ラカン, S20, 20 Février 1973)であり、一皮剥けば、死の欲動しかありません。これは壺を千ほど開ければ、誰もがきっと実感します、もっとも開けっ放しの壺ではダメです、《閉ざされた千の壺[mille vases clos]》(プルースト『見出された時』)が肝腎です。
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