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2021年5月31日月曜日

負にとどまる能力 negative capability

 



聴こえない旋律を聴く 岡崎乾二郎 「webちくま」2019年


知られているように《死者と生者の対話》は、ギリシャの壷絵の主要な主題だった。そこで示される視線のすれちがいはそのまま二つの別の世界の交差と乖離に対応されている。ここに描かれている人々は、互いの存在を意識しつつも触れ合うことができない別の世界にいる。二人の存在が現実的には乖離しつつも、《たましい》においてかろうじて交流している様子は、この壷の絵を注意深く見ているだけで感じられる。そのことは2500年近くも時を隔てた、また場所も文化もまったく違う、2019 年の日本で見ても感じられるということである。


「耳に聴こえる旋律はうるわしい、けれど聴こえない旋律はもっとうるわしい」という一節で名高い、ジョン・キーツ(1795-1821) の『ギリシャの壺のオード』は、こうした主題を共有するギリシャの壺の一つを題材にして書かれている。


耳に聴こえる旋律はうるわしい、けれど聴こえない旋律は

もっとうるわしい。だから、やさしい笛よ 奏でつづけなさい

耳で感じられるものではないけれど、はるかに慕わしい、

音をもたない小曲を、響かせてほしい、たましいに。

木陰に いる青年よ きみは その歌を忘れることは

できない。木々の すべての葉が散るわけではないように

おそれなく恋する青年よ きみは決してキスにいたることはない

勝利のゴールまぢかまで近づいても。でも悲しむことはない

乙女のすがたは消えることなく、いつまでも若く

いつまでもきみは愛しつづけ、乙女も永遠に美しい

(ジョン・キーツ『ギリシャの壺へのオード』、拙訳 )



「聞こえない旋律」とキーツがこの詩を通して語っているのは──わたしたちがもつ「現在という時」の意識は、わたしたちの感覚すなわち視覚や聴覚によって裏づけられているけれど、感覚から導かれる旋律=音楽は、結局はその時間や空間に位置づけられないものだということである。だからそれは消えることはない。もともと日常的な時間に属していないのだから。


 感覚器官として耳は、いま、ここという現在の時と空間の一点で捉えた音だけを知覚することができる。が、それが音楽=旋律として自覚されたとき、その音楽=旋律は現在という瞬間を超えた(最低でも前後の時間の)広がりをもち、空間としても一点の位置を超えた広がりをもって把握される。つまり音楽=旋律は特定の時間や場所を超えており、だから感覚器官としての耳で直接、聴くことはできない。その、耳では直接聴くことのできない旋律の響きも、それを捉える=聴くことのできる《たましい》も、日常の時間や空間を離れた外にある。いいかえれば音楽=旋律は日常の時間や空間に位置づけられない、それ自身の固有の場を備え、そこにあると認識される。「音をもたない小曲を響かせてほしい、たましいに」とキーツがこの詩のなかで語るのはそういう意味だろう。音楽=旋律は《たましい》とともに、いつまでも時間の外に留まる。



 音楽=旋律は、耳という感覚がとらえることのできる現在という時間、場所に属す音ではなく、その現在から離れた《たましい》の中に響いている。音楽=旋律はその意味で現世から疎外されている(現在という時間からも場所からも)。しかしこの疎外、つまり直接には聴こえない、見ることができない、という不能性こそが音楽ひいては芸術を理解する能力、何かと共感する能力の源になっている──キーツはそれを、ネガティブ・ケイパビリティと呼ぶ(ネガティブ・ケイパビリティnegative capabilityは〈消極能力〉と訳されているが、意味としてはむしろ〈負にとどまる能力〉だろう)。


えらい仕事を仕遂げた人を構成する性質、シェイクスピアが多量にもっていた性質──私が消極能力という性質のことです。この消極能力というのは、人が、事實や理性などをいらだたしく追求しないで、不確定、神秘、疑惑の状態にとどまっていられるときを言うのです。(『キーツ書簡集』、佐藤清訳)

 

レキュトスの壷絵に戻せば、その絵の中で死者と生者を隔てていたものは、それぞれの時間に縛りつけられた感覚だった。少女は聴くことができても見ることはできない、青年は見ることができても聴くことができない。それが少女と青年が此岸、彼岸という二つの場所に隔てられていることを示す。同じ時間と空間にあるものしか人は見ることができないし聴くことができない。だから二人は別の世界に隔てられている。


 ネガティブ・ケイパビリティとはこの《できない》という否定性を受け入れる能力である。それを受け入れたとき《たましい》は直接的な感覚(そして、それが位置する特定の場)から離れた音楽=旋律を奏でることができ、共振させることができる。


 キーツの論を敷衍させれば、それぞれが、あらかじめ共有されていると信じられた場から疎外されていること、つまりそれぞれ固有の《できない》という否定的条件、お互いの不可能性を認めたとき、その否定性から、はじめて共感能力は作動し共感が可能になる、ということもできる。そしてその共感はもはや、どこの場にも属さない。


 相容れない隔たった場所とは生者と死者、彼岸と此岸に限らない。敵と味方、白か黒か、正しいか誤りか、相対するだけで決して解決できない論争、紛争、対立のすべて、これら私たちの生に膠着する煩わしいだけの問題を乗り超える可能性を、キーツはネガティブ・ケイパビリティに見出そうとしていたのだ。〔・・・〕


現実において不在=ネガティブの場所、その場所を経験させることこそが芸術作品のもつ力であり可能性である。しかしこの不在の場をただ想像的な場所だということはできない。キーツは前出の書簡のなかで、さまざまな政治的な力学、論争に翻弄されたとき、そこから抜け出す力を与えてくれる特殊な感覚について述べている。


私はどんな幸福もあてにした覚えはありません。私は幸福というものを現在に求めるのでなければ求めたことはありません。──私をびっくりさせるものは瞬間だけです。落日はいつも私の調子を整えてくれるし、雀が窓の前に来たりすると、その雀の生命にとけこんでしまって、砂利などをついばむのです。(『キーツ書簡集』、同前)

 

キーツは逆にこうした瞬間こそが、わたしたちが現実と信じている世俗的な世界、わたしたちの言動をしばる政治的な力の葛藤する場所よりも強いリアリティを感じさせるという。この瞬間は人間社会の秩序からすれば些細な事象だけれども、それは決して、単なる瞬間ではなく、むしろ日常社会から周縁にあることで時間を超えたものである=だからそれは何度反復してもつねに新しいという感覚を与える。その経験は自分が人間社会その時間と空間に属しているという自覚を放棄させる。それを可能にするのがネガティブ・ケイパビリティである。そこでわたしはもはや誰でもなく、小鳥たち、雀たちと《たましい》において溶け込み、気づくと一緒に砂をついばんだりしている自分を発見したりもする。


これら犠牲として連れて来られるのは誰だろう

緑なす祭壇に。ああ神秘的な神官よ

連れられていくのは 空にむかって声をあげる雌羊たち

花飾りの胴巻きをかけられ

川沿い、海辺の小さな町

しずかな砦とともにそびえる山

この慎みぶかい朝に、誰もいない空っぽの

小さな町、永遠に、人々みんなのための道

静まりかえった、この寂寞のわけ

それを告げる人は誰一人、もどってこない

(ジョン・キーツ『ギリシャの壺へのオード』拙訳)


 

もし芸術作品が既存の政治に縛られない、開かれた公共性を可能にするものだとすれば、その公共性は現実のどこにも属さない場所を確保することによってしか可能ではないだろう。そこでだけ、いかなる現実的な属性からも離れた音楽=旋律は奏でられる。その場所でだけ現実のいかなる場所でも出会うことのない《たましい》たちは共振する。いま引用した『ギリシャの壺へのオード』の別の一節は不気味だが、この「犠牲」とは固有の誰かであってはならない。


 犠牲となるべきなのは、現世の世界に所属した、わたしたち、みなの存在なのだ。この道は永遠に人々みんなのために開かれている。この一節の光景を読んでいる者、眺めている者は、この光景の中にはいない。確かにこの光景には誰もいない(つまり、だれにも占拠されていない)。が、キーツはゆえにこの不在の場所ですべての《たましい》が出会うことができる、和解することもできるだろうと示唆する。もしわたしたちが自分たちの現実を否定的なもの、不在のものとして受け入れる力(つまり、みずからの存在を贖罪することのできる)ネガティブ・ケイパビリティを持っていさえすれば。






「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうる

ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』2008年)


力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 のうちに見出すときにのみなのである。


Die kraftlose Schonheit hasst den Verstand, weil er ihr dies zumutet, was sie nicht vermag. Aber nicht das Leben, das sich vor dem Tode scheut und von der Verwustung rein bewahrt, sondern das ihn ertragt und in ihm sich erhalt, ist das Leben des Geistes. Er gewinnt seine Wahrheit nur, indem er in der absoluten Zerrissenheit sich selbst findet.


精神がこの力であるのは、否定的なものから目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なものに留まるからこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。


Diese Macht ist er nicht als das Positive, welches von dem Negativen wegsieht, wie wenn wir von etwas sagen, dies ist nichts oder falsch, und nun, damit fertig, davon weg zu irgend etwas anderem ubergehen; sondern er ist diese Macht nur, indem er dem Negativen ins Angesicht schaut, bei ihm verweilt. Dieses Verweilen ist die Zauberkraft, die es in das Sein umkehrt.(ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年)