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2021年6月10日木曜日

スカスカからの脱出の道

 あまりエラそうなことを言うつもりはないが、作家の文章をとくに翻訳で読む場合、同じ語で訳される言葉は、作家のあいだで違った内実を持っているのではないかとまずは疑うべきだよ。


願望とはフロイト用語のWunschであり、われわれはこの語を欲望と翻訳する[vœu , …Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.]。(Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME, 2016)



今、「欲望」を例に出したのでこの語について言うが、たとえばプラトンの翻訳で「欲望」や「快楽」と訳される言葉は実際は何を言いたいのか。



いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)


ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。


この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)




これを見分けるのは至難の技とはいえ、そこをいくらかは突っ込まないといつまでたってもスカスカだよ。


これは翻訳でなくてもそうであって、それは、何度か掲げている同時代人「ドゥルーズ/フーコー」の「欲望/快楽」の話に典型的に現れている。



欲望と快楽 Désir et plaisir

最後に会った時、ミシェル(Foucault)は優しさと愛情を込めて、私におおよそ次のようなことを言った。僕は欲望 désir という言葉に耐えられない、と。もし君たちが異なった意味でその語を使っているにせよ、僕はこう考えたり経験せざるをえない、つまり欲望=欠如、あるいは欲望は抑圧されたものだと。ミシェルは付け加えた、僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望désir」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ、と。


La dernière fois que nous nous sommes vus, Michel me dit, avec beaucoup de gentillesse et affection, à peu près : je ne peux pas supporter le mot désir ; même si vous l’employez autrement, je ne peux pas m’empêcher de penser ou de vivre que désir = manque, ou que désir se dit réprimé. Michel ajoute : alors moi, ce que j’appelle « plaisir », c’est peut-être ce que vous appelez « désir » ; mais de toute façon j’ai besoin d’un autre mot que désir.

言うまでもなく、これも言葉の問題ではない。というのは、私の方は「快楽」という言葉に耐えられないからだ。では、それはなぜか? 私にとって欲望には何も欠けるところがない。更に欲望は自然と与えられるものでもない。欲望は機能している異質なもののアレンジメントと一体となるだけだ。 


Évidemment, encore une fois, c’est autre chose qu’une question de mot. Puisque moi, à mon tour, je ne supporte guère le mot « plaisir ». Mais pourquoi ? Pour moi, désir ne comporte aucun manque ; ce n’est pas non plus une donnée naturelle ; il ne fait qu’un avec un agencement d’hétérogènes qui fonctionne ;〔・・・〕

言ってしまえば、私はこれらのことすべてに当惑する。というのは、ミシェルとの関係においてはいくつかの問題が湧き起こるからだ。私は快楽に少しも肯定的な価値を与えられない。なぜなら快楽は欲望の内在的過程を中断させるように見えるから。


Si je dis tout cela tellement confus, c'est parce que plusieurs problèmes se posent pour moi par rapport à Michel : Je ne peux donner au plaisir aucune valeur positive, parce que le plaisir me paraît interrompre le procès immanent du désir ;〔・・・〕

私は自らに言う、ミシェルがサドに確かな重要性を結びつけ、逆に私はマゾッホにそうしたことは偶然ではないと。次のように言うことは十分ではない、私はマゾヒストでミシェルはサディストだと。とそれは当を得たように見えるが、本当ではない。マゾッホの中で私の興味を引くのは苦痛ではない。 快楽が欲望の肯定性、 そして欲望の内在野の構成を中断しにくるという考えだ。〔・・・〕快楽とは、人の中に収まりきらない過程の中で、人や主体が「元を取る」ための唯一の手段のように思える。それは一つの再領土化だ。


Je me dis que ce n’est pas par hasard si Michel attache une certaine importance à Sade, et moi au contraire à Masoch.  Il ne suffirait pas de dire que je suis masochiste, et Michel, sadique. Ce serait bien, mais ce n’est pas vrai. Ce qui m’intéresse chez Masoch, ce ne sont pas les douleurs, mais l’idée que le plaisir vient interrompre la positivité du désir et la constitution de son champ d’immanence […] Le plaisir me paraît le seul moyen pour une personne ou un sujet de « s’y retrouver » dans un processus qui la déborde. C’est une re-territorialisation. (ドゥルーズ「欲望と快楽 Désir et plaisir」1994年『狂人の二つの体制 Deux régimes de fous』所収)




他にも、たとえばフロイトラカン文脈なら、リーベ(愛)という語がとても厄介で、ひどく苦労した。


フロイトのリーベ[Liebe]は、愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない。il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)



上でミレールが愛と言っている語自体、実際はナルシシズムのことだ。


ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである。qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,[…]  l'amour c'est le narcissisme  (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


フロイトラカン用語の基本区分を示せばこうなる。




さらに右項目の「自己身体の享楽=自体性愛」における「自己身体」とは究極的には、自己身体ではないということがある(参照)。



最後にもう一度プラトンに戻れば、饗宴のエロス(愛)とは何なのか。


「エロスはそのなにかを欲しているのだろうか、それとも欲してはいないのだろうか?」「もちろん、欲しています」と彼は言った。「それでは、エロスがそのなにかを欲し求めるのは、それを所有しているときだろうか、それとも、所有していないときだろうか?」「所有していないときでしょう。おそらくですが」とアガトンは答えた。「ちょっと考えてほしいのだが」とソクラテスは言った。「おそらくではなく、必然的にそうなのではあるまいか― 欲するものがなにかを欲するのは、それが欠けているからであり、何も欠けていないなら欲しなどしないということは。アガトン、私には、このことが完全に必然的なことに思えるのだ。あなたはどう考える?」「賛成します」。(プラトン『饗宴』200a)

「さて」とソクラテスはおっしゃったそうだ、「今までに言われて一致を見たことを繰り返すことにしよう。エロスとは第一には、或るものの恋であり、第二には、彼に現在欠乏しているところの或るものの恋であるにほかなるまい?」。アガトンは「はい」と言ったそうだ。〔・・・〕

「ところで、彼の欠いているものや持っていないものを恋するということが認められてはいなかったかね」「はい」と彼は言ったそうだ。

「従ってエロスは美を欠いている者であり、それを持たぬ者であるということになる」「それは必然です」(プラトン『饗宴』200-201)


ラカンは次のように解釈した。


美は、最後の障壁を構成する機能をもっている、最後のモノ、死に至るモノへの接近の前にある。この場に、死の欲動用語の下でのフロイトの思考が最後の入場をする。〔・・・〕この美の相、それはプラトン(『饗宴』)がわれわれに告げた愛についての真の意味である。


« la beauté » …a pour fonction de constituer le dernier barrage avant cet accès à la Chose dernière, à la Chose mortelle,  à ce point où est venue faire son dernier aveu  la méditation freudienne sous le terme de la pulsion de mort. […]la dimension de la beauté, et c'est cela qui donne son véritable sens à ce que PLATON  va nous dire de l'amour. (Lacan, S8, 23  Novembre 1960)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


ーー《死の欲動の別の名としての享楽[la jouissance comme un autre nom de la pulsion de mort. ]》(Frank Rollier, La jouissance du corps vivant, 2015)



モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)


フロイトはプラトンのエロスをリビドー 、あるいは愛の欲動[Liebestriebe]としたが、ラカンにとって《すべての欲動は実質的に、死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort》(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年)だ。