1976年のラカンはこう言っている。 |
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享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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つまりは「享楽はトラウマ」である。これが後期ラカンの最も簡潔な享楽の定義である。ラカンにおいてトラウマの別名は穴であり、ーー《現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».]》(S21, 19 Février 1974)ーー「享楽は穴」としてもよい。
ジャック=アラン・ミレール注釈にてもうすこし詳しくみよう。 |
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サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011) |
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サントームという享楽自体[la jouissance propre du sinthome ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008) |
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われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée](J.~A. Miller, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011) |
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この三文と冒頭のラカン二文を合わせれば、《享楽はトラウマであり、かつトラウマの反復である[La jouissance, c'est le trauma et sa répétition]》となる。 |
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さらに厳密に言おう。 |
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享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, …elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
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身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021) |
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享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
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これらはすべて、フロイトの「トラウマへの固着と反復強迫」の言い換えである。 |
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トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕 この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ] (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
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そして反復強迫の別名は死の欲動である。 |
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われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。 Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
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死の欲動は現実界である。La pulsion de mort c'est le Réel(Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
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ーー《死の欲動の別の名としての享楽[la jouissance comme un autre nom de la pulsion de mort. ]》(Frank Rollier, La jouissance du corps vivant, 2015) 以上、ラカンの享楽ーー現実界の享楽[Jouissance du réel] (Lacan, 1976)ーーとその反復は、フロイトの「トラウマへの固着と反復強迫」と等置しうる。 |
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ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours. ](J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011) |
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なお、死の欲動の基本的機制については、「死の欲動のメカニズム」を参照されたし。 簡単に言えば、次の図の「1」が固着(享楽の固着)である。 だが固着には表象的要素と身体的要素があり、「1」は表象的要素、他方、身体的要素としての「身体」corpsとは固着による身体的残滓を意味する。別名、異者としての身体[Fremdkörper]。そして、身体の出来事としてのトラウマへの固着によって、エス=現実界に置き残された「異者としての身体」を取り戻そうとする「生きている存在には不可能な」反復強迫運動を死の欲動と呼ぶ。これが本来の享楽の内実である。 ……………… |
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さてもう一度基本に戻る。 ここで強調したいのは、享楽にはトラウマの意味があると同時に、反復の意味があることである。 |
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享楽と反復と手と手を取り合っている[Jouissance et répétition ont partie liée] (François Bony, Jouissance et répétition, 2015) |
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反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]. 〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970) |
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ーー「反復は享楽の回帰」とあるが、ここまで示したように享楽=トラウマであり、「反復はトラウマの回帰」である。 |
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ところで「現実界の享楽」の防衛に過ぎないファルス享楽[la jouissance phallique]の別名は、言語の享楽[la jouissance du langage] である。 |
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享楽は、身体の享楽と言語の享楽の二つの顔の下に考えうる。on peut considérer la jouissance soit sous sa face de jouissance du corps, soit sous celle de la jouissance du langage (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 27/5/98) |
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ファルス享楽とは象徴界内の享楽であり、本来の享楽ーー言語外の「身体の享楽」ーーという観点からは、言語の享楽[la jouissance du langage]とは一見奇妙な表現である。だが、享楽を反復の意味で捉えれば、「言語の反復」となり、人がみなこの瞬間にもやっている享楽である。 そして言語の使用自体、トラウマ的でありうる。
以上、享楽は「トラウマ」と「反復」の両方の意味があることを示した。 …………… ※付記 なおトラウマにかかわるフロイト用語とラカンおよび現代ラカン派用語を対照させれば次のようになる。 ※「享楽の固着の永遠回帰」 四行目までがトラウマ(トラウマへの固着)であり、下二行が反復である。
…………………… ※参照 現代ラカン派では享楽とその防衛としての剰余享楽にかんして、次の表現群の対照がなされている。 下段三行は行毎に用語が対照されるのではなく、左右三行の用語はそれぞれ代替しうる。この記事では穴(トラウマ)を強調したが、現実界の享楽は穴界(トラウマ界)、排除界、去勢界と呼ぶごとができ、その防衛としてに剰余享楽は、穴埋め界、妄想界、倒錯界(フェティシズム界)と呼びうる。現代ラカン派において、われわれの世界はこの二つしかない。
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