前回示した最初に示したこの図、
つまり次の話だが、
現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノ[das Ding]によって示される。このモノをラカンは欲動として示した。 le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011) |
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ラカン派みたいに上階を「見せかけ」とは言わないまでも、精神分析の世界では、ある意味で「常識」だよ。
たとえば中井久夫は1996年に既にさらっとこう言っている。
……いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。 この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
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「見せかけ」とはラカンの大他者のことであり、まさにエディプス期以後の世界のことだ。フロイトの自我の世界と言ってもいい、ーー《フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある。il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien》 (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)
ボロメオの環で見せかけのポジションを置けば、ほぼグレーに塗った箇所になる。
とはいえ、快原理の彼岸にある地階のモノ=欲動(現実界の享楽)とは、事実上は、JȺのポジションであり、この心的なものと身体的なものの境界ポジションが最重要。
JȺは、文字通り読めば、穴の享楽[la jouissance du trou]だが、より具体的には、次の通り。 |
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ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。 le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015) |
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ーー《身体は穴である。le corps…C'est un trou》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) つまりJȺは固着による身体の穴の享楽だ。たとえばパニック障害は、ボクの依拠することの多いポール・バーハウ によればJȺのポジションの障害[参照]。 |
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ファルス享楽JΦは言語内の享楽(シニフィアンに結びついた享楽)であり、もうひとつのJsは意味の享楽ーー、《意味の享楽[Js]は最も心的なものであり、身体の想像界の享楽と身体に付随した表象の享楽をもたらす。la joui-sens, la plus mentale, qui met en jeu l'imaginaire du corps et des représentations qui s'y attachent; 》 ( Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)。要するに、前回示したイマジネールな身体の享楽。 以上、簡単にいえば、こういうことだ。 |