荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。(石倭裕子ーー桐山秀樹『荒木経惟の「物語」』1998年) |
この前後は何を言っているのかわからず、この箇所だけ数年前に拾ったんだが、いい言葉だなあ、折に触れて回帰するよ。 「荒木経惟−石倭裕子」でネット検索してもあまり出てこず、かなり苦労して画像拾った。1時間ばかりはかかったね。ここではそのなかのいくつか。 |
女っていうのはさあ、残酷って言うか、野獣だから「何で私のスケベなとこ見えないのかしら、そういうとこ撮ってくれないのかしら」って内心じゃ怒ってるわけだよ。 (荒木経惟発言 伊藤俊治『生と死のイオタ』所収1998年) |
荒木のヌード写真を支えているのは"撮られる側の欲望"であり、それは「女を撮られたい」ことだということである。ヌード写真を批判する議論として、それが男の性的欲望に奉仕する"女″を強制的に演じさせられているからという言い方がある。しかし、実のところ自分の中に確実にうごめいている"女"の「エロス」をまっすぐに見つめて欲しいという欲望こそ、ヌード写真がこれほどまでに大量に撮られ続けている最大の理由なのではないか。(飯沢耕太郎 『荒木! 「天才」アラーキーの軌跡』1999年) |
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かつて私は、現実を超え、現物を感じさせる女を、「広辞苑」に内緒で、女優と定義したが、実は、女は、すべてが現実を超えていて、現物なのである。女は、すべて女優なのである。(荒木経惟『劇写「女優たち」』1978年) |
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相手に想いをぶつけてそれを撮っている。 私の場合は、相手とのぶつけ合いで、このあたりまで(相手との中間の空間)撮れちゃうわけ。ここの空気まで写っちゃう。 空間と空間の狭間、つまり際物が好きなんだね、境界線のあたりが。(荒木経惟発言ーー 伊藤俊治『生と死のイオタ』1998年) |