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2021年6月11日金曜日

時代と環境に支配された情動



情動は、言語に住まうという特性を持っている身体にやってくる。Ainsi l'affect vient-il à un corps dont le propre serait d'habiter le langage, (ラカン, TELEVISION, AE525、Noël 1973)


これは何を言っているのか。

怒り、恐れ、喜び、悲しみなどの情動は、言語に支配されているということを言っている、あるいは情動は思考に支配されていると。


次の点だけにでも誰か答えていただきたい、-ー情動は、身体に関係するのだろうか。アドレナリンの分泌は身体的なものだろうか、そうではないのか。この分泌が身体の諸機能を混乱させるということは事実だ。しかし、いかなる点においてそれは魂なるものからやって来るのだろうか。情動が分泌されるのは思考によってなのである。Qu'on me réponde seulement sur ce point: un affect, ça regarde-t-ille corps? Une décharge d'adrénaline, est-ce du corps ou pas? Que ça en dérange les fonctions, c'est vrai. Mais en quoi ça vient-il de l'âme? C'est de la pensée que ça décharge. (ラカン、TELEVISION, AE524, Noël 1973 )


情動は、身体自体で直接的に感じているわけではない。言語(あるいは思考)を通しての情動であり、たとえば使う言語が異なれば、異なった情動の表出がある。


ニーチェはこう言っている。


ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」[anders "in die Welt" blicken]、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番、1986年)


比較的よく知られているだろう、「サピア・ウォーフの仮説 Sapir-Whorf hypothesis」も基本的にはニーチェと同様の観点である。


人間は単に客観的な世界に生きているだけではなく、また、通常理解されるような社会的行動の集団としての世界に生きているだけでもない。むしろ、それぞれに固有の言語に著しく依存しながら生きている。そして、その固有の言語は、それぞれの社会の表現手段となっているのである。こうした事実は、“現実の世界”がその集団における言語的習慣の上に無意識に築かれ、広範にまで及んでいることを示している。どんな二つの言語でさえも、同じ社会的現実を表象することにおいて、充分には同じではない。. (Sapir, Mandelbaum, 1951)



さらに言えば、悲しかったり、楽しかったり、美しかったりと感じることは、時代の言説にも囚われている。


情動は歴史に支配されている[Les affects sont sujets à l'histoire]。これは簡単に理解できる。情動は享楽の地位[ statut de la jouissance ]によって絶えず変化するので、情動は言語の効果[effet de langage] のみではなく、言説の効果[ effets de discours ]によって影響される。後者の言説の意味は、それが享楽の様相 [modalités de jouissance]を統制する限りにおいて、社会的結びつき[ lien social]の特徴が情動を生み出すということである。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


ラカンの定義において、言説と社会的結びつきは等価であり、「言説の効果」とは「社会的結びつきの効果」である。


言説(社会的結びつき)とはイデオロギーということでもある。マルクスによるイデオロギーの最も簡潔な定式は、《彼らはそれを知らないが、そうする Sie wissen das nicht, aber sie tun es》(『資本論』)だ。


話を戻せば、たとえば時代や環境が異なれば、いま悲しいことは悲しくないのである。ある時代のある地域で共感(同情)されることは別の時代の別の環境では同情されない、とはニーチェが繰り返したことだ。



たとえば加藤周一は次のように言ってさえいる。


一般に日本人が自然を好んでいたから、芭蕉が自然の風物を詠ったのではなく、彼が自然の句を作ったから、日本人が自然を好むとみずから信じるようになったのである。(加藤周一『日本文学史序説 』)


ーーこれを受け入れるなら、日本人が自然を愛するようになったのは芭蕉という文学的イデオロギーのせいだということになる。いくらか極論気味ではあるが、この論法は批評家たちによってしばしば使われてきた。


(キリスト教における「告白の制度」において)隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すことを、あるいは「内面」を作り出すのである。(柄谷行人「風景の発見」『日本近代文学の起源』)



芭蕉に戻ってこう引用しておこう。


彼一個のなかに詩人、批評家、ジャーナリストの三人がゐたと見るのは、さもなければ彼の文学的事業の成立は理解しにくいからである。 芥川龍之介は一日、わたくしに囁いて曰く「芭蕉といふおやぢは会つてみたら案外アクの強い藤村みたいないやな男(彼は大の藤村ぎらひであつたから)であつたかも知れないよ」(佐藤春夫「管見芭蕉翁」)



ーージャーナリストは宣伝家あるいはイデオロギストに置き換えてもよいだろう。


ラカン派における情動は欲動(享楽)とは異なる。


情動は、欲動とは異なり、身体とは直接に関係ない。逆に、情動の本質は、不安(現実界)を基礎とした置換・換喩である。(ポール・バーハ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


ーー置換・換喩とは言語に関わるということである。


そして「不安(現実界)」は、トラウマにかかわる。


不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


たとえば愛である。言語がなかったら愛はあるだろうか。性(性欲動)しかないのではないか(もっともフロイトにおいて「性欲的」と「性器的」とは異なることに注意しなければならない[参照]。これは何もフロイトでなくても当たり前の話だが。つまり人にはみな性器的でない性欲動がある)。


ラ・ロシュフーコーはこう言っている、《いちども愛の話を聞かなかったなら、愛などけっしてしなかったろうと思われる人間がたくさんいる[Combien de gens n'auraient jamais aimé s'ils n'en avaient entendu parler]》。


つまりは、「文化がなかったら愛の問題はないだろう Qu'il ne serait pas question d'amour s'il n'y avait pas la culture」ということだ。 (Lacan, S10, 13 Mars 1963)


愛は穴埋めである。


愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)


これは身体的な欲動をヴェールするということだ。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


……………


折口信夫は、万葉集の恋歌は恋愛の実感から来たものではないと言っている。そして《無意識の性の焔と、機智の閃き》という表現を使いつつ、《人は誤解して居ます。万葉人はすべて、命がけで恋愛生活に没入して行つたといふ風に考へるのです。唯強い性の自在を欲する潜熱に、古代人の生活の激しさが見えるだけです》としている。


やつぱり一つ申し添へぬと、結末のつかぬ様に考へます。其は初めに申しました様に、万葉集に現れた恋愛の歌は、悉く恋愛の実感から叫ばれた作物と思うて来たのは、間違ひであります。此事を言ひたいのです。名高い物になつた恋愛の歌といふものは、応用的のもので、実感を湛へたものでない。


歌垣の話ですが、最後にあげました村人が神の庭に集まる神祭りの場合、村中の男と女とが、極めて放恣な――後世から見て――夜の闇に奔馳する。さうした事は、神の資格に於て、村の男が、神の巫女なる村の女に行き触れて居たのです。祭り場の空気が、そこまで有頂天に人々をさせる迄の間は、男方と女方とに立ち場処を分けて、歌のかけあひをする。男方から謡ひ出した即興歌に対して、女方からあとをつけるといふ儀式がある。此を歌垣と言ひ、方言ではかゞひ・をづめなどと言うたらしい。男と女のかけあひだから、性的な問答が中心になる。而も相手を言ひ伏せる様な文句が闘はされるのです。性愛の相手を求めるのでなく、語争ひがかうした儀式の目的なのです。だから、其間にとりかはされる恋愛問答の歌は、相手の足をすくはうとか、凌駕しようとかいふ点に、焦点を据ゑます。さうして発達した――かういふ場合が短歌を伸びさせたのです――恋愛の歌は、大抵内容のない誇張した抒情詩になる。語の上の争ひに陥る。平安朝になつても、大抵恋愛問答といふものは、さういふやうな詞の上だけで、人をたらすやうなものになつて行つた。


日本の初期の恋歌は、恋愛の実感から出て居るものではない。神の祭りの夜のかけあひ文句――いはゞ揚げ足取りのやうなもの――から出ました。それだから、其恋愛に、真実味といふものがない。あるのは無意識の性の焔と、機智の閃きとです。さうして出来た恋歌の、稍醇化せられかけた万葉集の牧歌的気分に充ちた半成の抒情詩を、人は誤解して居ます。万葉人はすべて、命がけで恋愛生活に没入して行つたといふ風に考へるのです。唯強い性の自在を欲する潜熱に、古代人の生活の激しさが見えるだけです。(折口信夫「古代生活に見えた恋愛 」初出1926年)



………………


最後にウィトゲンシュタインの名高い痛みの話を掲げておこう。ラカンの情動の話「とともに」読める筈である。


語はいかにして感覚を指示するのか? [Wie bezieben sich Wörter auf Empfindungen?]―― そこに問題は何もないように思われる。というのも、私たちは普段、感覚について語り、その名前を言っているのではないか? しかし名前と名指されたものとの結合はどのように作られるのか? この問いは「人はいかにして感覚の名前 ―― 例えば『痛み』 ―― の意味を学ぶのか?[wie lernt ein Mensch die Bedeutung der Namen von Empfindungen? Z.B. des Wortes "Schmerz". ]」という問いと同じである。


ひとつの可能性がある。つまり言葉が根源的で自然な感覚の表出に結び付けられ、それの代わりになっている。Dies ist eine Möglichkeit: Es werden Worte mit dem ursprünglichen, natürlichen, Ausdruck der Empfindung verbunden und an dessen Stelle gesetzt. 


子供が怪我をして泣く。すると大人たちがその子に語りかけて、感嘆詞を教え、後には文章を教える。彼らは子供に新しい痛みの振る舞いを教えるのである。 Ein Kind hat sich verletzt, es schreit; und nun sprechen ihm die Erwachsenen zu und bringen ihm Ausrufe und später Sätze bei. Sie lehren das Kind ein neues Schmerzbenehmen.

「すると、『痛み』という語は実際には泣き喚くことを意味していると言うのですか?」――逆である。すなわち、痛みの言葉による表現は、泣き声の代わりなのであって、それを記述しているのではないのだ。 Sie lehren das Kind ein neues Schmerzbenehmen."So sagst du also, daß das Wort 'Schmerz' eigentlich das Schreien bedeute?"-Im Gegenteil; der Wortausdruck des Schmerzes ersetzt das Schreien und beschreibt es nicht.(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』244番)