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2021年7月15日木曜日

乳房と子宮


何度も示してきたことだが、前回説明抜きで記した「乳房と子宮を抱えた女が強いに決まっている」と要約しうる内容に対して違和がある方がいらっしゃるようなので、以下に「子宮と乳房」をめぐって基本的なところを簡潔に示す。


まずラカンにおいて、享楽=去勢=穴(トラウマ)=喪失=モノ(母の身体)であることを引用にて確認する。


◼️享楽=去勢(斜線を引かれた享楽)

享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à BruxellesLe 26 Février 1977

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ». (Lacan, S15, 10  Janvier  1968


◼️享楽=穴(トラウマ)

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示され他ない[lla jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970

享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel. ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974


◼️享楽の喪失=喪われた対象

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Lacan, S17, 14 Janvier 1970


◼️モノ=母の身体=喪われた対象

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976

モノは母である[das Ding, qui est la mère](ラカン, S7, 16 Décembre 1959

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


以上によって、ラカンにおける享楽は、去勢=穴(トラウマ)=喪失=モノ(母の身体)であることが確認された筈である。


ラカンマテームなら次の通り。




そしてこのモノの別名が、異者としての身体、喪われた対象a、去勢、穴、トラウマである。

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者としての身体問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )

喪われた対象aの形態永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である[la forme de la fonction de l'objet perdu (a), …l'origine…il est à contourner cet objet éternellement manquant. ](Lacan, S11, 13 Mai 1964

私は常に、一義的な仕方で、この対象a (-φ)[去勢]にて示している[cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ). ](ラカン、S11, 11 mars 1964

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 Fremdkörper のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)



「モノ=異者としての身体」は外密 extimité]とも呼ばれるが、この外密はラカンがフロイトの不気味なものを翻訳した語であり、その意味は最も親しかったが外部に放り出されてしまったものである。


私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密[extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン, S7, 03 Février 1960)

対象a は外密的である[l'objet(a) est extime](Lacan, S16, 26 Mars 1969

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの』1919年)



さらに確認すれば、究極の喪失(喪われた対象a)は子宮である。


例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.](ラカン、S1120 Mai 1964

喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)





次にフロイトにおいても同様であることをもういくらか詳しく示そう


◼️去勢(母の乳房・子宮等)=トラウマ

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)

出産外傷[Das Trauma der Geburt  =母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]=原抑圧[Urverdrängung]=原トラウマ[Urtrauma](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)


◼️母=喪われた対象(トラウマ)

(幼児が)母を見失うというトラウマ的状況[Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter]〔・・・〕


母という対象は、欲求のあるときは、「切望」と呼ばれる強い備給を受ける[das Objekt der Mutter geschaffen, das nun im Falle des Bedürfnisses eine intensive, »sehnsüchtig« zu nennende Besetzung erfährt. ]〔・・・〕


(この)見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件をもつ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11C1926年)


※上の文にある備給は、リビドー=享楽に置き換えうる。

備給はリビドーに代替しうる »Besetzung« durch »Libido« ersetzen》](フロイト『無意識』1915年)

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011



フロイトは母からの分離、つまり去勢についてこう言っている。


母からの分離。最初は生物学的な母からの分離、次に直接的な対象喪失、後には間接的な形での分離である。eine Trennung von der Mutter bedeuten, zuerst nur in biologischer Hinsicht, dann im Sinn eines direkten Objektverlustes und später eines durch indirekte Wege vermittelten. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


生物学的分離が、子宮の喪失である。直接的分離の代表的なものが、母の乳房の喪失である(間接的な分離の代表的なものがエディプス的父による禁止)。


ここでは生物学的去勢と直接的去勢のふたつを示す(ラカン派用語なら原去勢と現実界的去勢[参照])。


去勢ー出産は、全身体から一部分の分離である。(Kastration – Geburt) um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)

疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。


乳房が身体から分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)


原ナルシシズム的リビドーとはフロイトにおいて自体性愛的欲動[autoerotischen Triebe]と等価であり、これがラカンの享楽である。ーー《後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. ]》(Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)



享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. ]〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique.]J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011

享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。この去勢された享楽の対象は、外密のポジションにある。ラカンはこの外密をモノの名として示した。[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. Cet objet de la jouissance … comme occupant une position extime, …c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose]J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004


つまり自体性愛的享楽の対象とは、かつて自己身体とみなしていたが去勢されてしまった母なる身体、喪われた母なる身体であり、これが享楽自体=欲動が向かう対象aである。



用語の確認をしておこう。


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011

欲動は心的生に課される身体的要求である[ Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章草稿、死後出版1940年)


以上、欲動(リビドー)=享楽=身体的要求とすることができる。喪われた乳房あるいは子宮を取り戻そうとする反復運動(享楽の回帰)とは、自我の話ではない。自我のレベルでは女性の方はいろいろお苦しみになっているかもしれない。自我とは言語秩序(ファルス秩序)の審級にある。この自我のレベルでは「乳房と子宮を抱えた女が強い」ことに違和があっても、身体のレベルの欲動、あるいは無意識のエスの反復強迫の話においては奇妙ではまったくない。少なくともこれが、フロイトラカンが主に臨床的実践から得た結論である。


自我は自分の家の主人でさえない[Ich …, daß es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)



最後にフロイトの欲動の別の定義をふたつ掲げておこう。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)