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2021年7月16日金曜日

女性における「性器の性的興奮と主観の性的興奮の不一致」

 


女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) 

素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。   (坂口安吾「女体」1946年)


安吾は戦争中にしっかり研究したのである、女なるものを。



女の身体は冥界機械 [chthonian machin] である。その機械は、身体に住んでいる心とは無関係だ。(カミール・パーリア「性のペルソナ Sexual Personae」1990年)

女たちは自らの身体を掌握していない。古代神話の吸血鬼とゴルゴン(ステンノー、エウリュアレー、メドゥーサの三姉妹)の不気味な原型は、女性のセクシャリティの力と恐怖について、フェミニズムよりずっと正確である。(Camille Paglia  “Vamps & Tramps: New Essays”、1994)







真の女は常にメデューサである[une vraie femme, c'est toujours Médée.] (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)


男性の方々には最低限、夫婦関係においては地獄の釜の蓋を開けないようオススメします。


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カナダの女性神経心理学者による「女は身体的な興奮と主観的な興奮が一致しない」という実験結果もびっくりしました。男はペニスの勃起と性的興奮が完全に一致しますが(興奮にしないと勃たない)、女はヴァギナが興奮しても主観的には性的興奮を感じていないことがある。これは男にとって驚天動地の話ですが、知り合いの複数の女性から「そんなの当たり前だと思っていた」「橘さんが驚いたことに驚いた」といわれて、さらにびっくりすることになりました。(橘玲「進化しない人間の性愛 男にとって女が「永遠の謎」である理由」2020年7月14日


「女は身体的な興奮と主観的な興奮が一致しない」については、カナダの女性神経心理学者だけでなく、種々の研究成果を紹介している2019年の論がある➡︎Understanding sexual arousal and subjective–genital arousal desynchrony in women, by Cindy Meston&Amelia M. Stanton, 2019, PDF


この論には色々な図が示されているが、次の図が最も鮮明化されている。





必ずしもすべての女性ではないようだが、性器の性的興奮と主観の性的興奮の不一致が示されている。男性は、女性が「がなぜこんなに濡れているのかしら?」と呟く局面に遭遇しても「このアマ、トボケやがって!」などとシツレイなことを思ってはならないのです。


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身体の実体は、《自ら享楽する身体》として定義される[Substance du corps, …qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ».  ](Lacan, S20, 19 Décembre 1972)


ーー《きみは享楽してるとき、ぼくを愛してるかい?[Quand tu jouis, est-ce que tu m'aimes ?]》(J.-A. Miller, L'OBJET JOUISSANCE, 2016/3)


ひとりの女は他の身体の症状である。もしそうでなかったら、ひとりの女はいわゆるヒステリーの症状のままだ。une femme est symptôme d'un autre corps, si ce n'est pas le cas, elle reste symptôme dit hystérique.» (Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)



ふたつの身体


ラカンの身体は、第一に鏡像段階の身体[le corps du Stade du miroir]であり、本質的にイマジネールな身体[un corps imaginaire]である。他方、後期ラカンの新しい身体は、享楽の支柱[le support de la jouissance 」であり、他の身体[un autre corps]である。(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN -09/03/2011、摘要)



ラカンやミレールは上のように言っていますが、パートナーとの関係を長続きさせるためには、むしろ女性をイマジネールな享楽、あるいはヒステリーの享楽のままに抑えておくべきではないでせうか。


女は欠如をエンジョイする。去勢を楽しむ。これは種々の形式をとる。わたしたちは哀れな女たちを知っている。男の幻想に囚われた女たちを。Elle peut jouir du manque, faire de la castration ses délices. Cela peut prendre des formes très diverses. On connaissait la femme pauvre, chère au fantasme masculin 〔・・・〕


そこにヒステリーの享楽がある。欠如を無に移行させ、誘惑を楽しむヴァージョンのなかで魅惑するものとして無を使う。Là est la jouissance de l'hystérique. Quand le manque est transformé en rien, il peut servir à charmer dans une version joyeuse de la séduction. 


しかし愛のよりラディカルなヴァージョンがある。そこでは女性自らを身体と魂に奉納するよう導く。犠牲にさえする。Mais une version plus radicale de l'amour peut aussi conduire une femme à se vouer corps et âme, jusqu'au sacrifice,〔・・・〕


ヒステリーとは異なりこの女性のポジションは裂け目を埋めない。裂け目を可視的なままにする、自らの存在を為すために。ミレール曰く、《突き詰めれば、真の女は常にメドゥーサ である》。女性の裂け目の享楽[la jouissance de la béance féminine]、穴の享楽[la jouissance du trou]、無の享楽、空無の享楽、それは根源的放棄へと導きうる。


Cette position féminine, à la différence de celle de l'hystérique,[…] c'est ne pas combler le trou, laisser la béance apparente, en faire son être. « Allons jusqu'au bout – dit Jacques-Alain Miller – Une vraie femme, c'est toujours Médée »(Miller J.-A. « Médée à mi-dire ») Eprouver la jouissance de la béance féminine, la jouissance du trou, du rien, du vide, peut conduire à un renoncement radical.〔・・・〕

文学や映画は、女性性における裂け目を行使するためにとことんまで行く女たちのあらゆる事例を提供している。現代の臨床に関しても、この去勢の享楽、無の享楽、空無の享楽を証明する事例に不足はない。わたしたちはもはや美のヴェールの背後の去勢を無理して隠さない。La littérature et le cinéma nous offrent toutes sortes d'exemples de femmes qui vont jusqu'au bout pour faire valoir cette béance de la féminité. Quant à la clinique contemporaine, elle ne manque pas de cas qui témoignent de cette jouissance du moins, du rien, du vide.[…] On ne cache plus forcément son moins derrière le voile du beau. (Le vide et le rien. Par Sonia Chiriaco - 30 avril 2019)



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…そのとき中戸川が急に声を細めて、女房といふものはたゞ淫慾の動物だよ、毎晩幾度も要求されるのでとてもさうは身体がつゞかないよ、すると牧野信一が我が意を得たりとカラ〳〵と笑ひ、同感だ、うちの女房もさうなんだ、――とみゑさん、ごめんなさい、私はあんたを辱めてゐるのではないのです。どうして私があなたを辱め得ませうか。あなたは病みつかれ、然し、肉慾のかたまりで、遊びがいのちの火であつた。その悲しいいのちを正しい言葉で表した。遊びたはむれる肉体は、あなたのみではありません。あらゆる人間が、あらゆる人間の肉体が、又、魂が、さうなのです。あらゆる人間が遊んでゐます。そしてナマ半可な悟り方だの憎み方だのしてゐます。あなたはいのちを賭けたゞけだ。それにしても、あなたは世界にいくつもないなんと美しい言葉を生みだしたのだらう。(坂口安吾「蟹の泡」1946年)




女の壺は空虚かい、満湖[plein]かい? あれは何も欠けてないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein? …Il n'y manque rien. ] (Lacan, S10, 20 Mars 1963 )


ーー《男のほうは、性交において勃起萎縮[la détumescence dans la copulation] があるからな、欠けるんだ、オチンチンがちょん切られるようなもんだ。》(Lacan, S10, 15 Mai 1963、摘要)


不気味なものは、欠如が欠如していると表現しうる[L'Unheimlich c'est …si je puis m'exprimer ainsi - que le manque vient à manquer.  ](Lacan, S10, 28 Novembre 1962、摘要)

欠如の欠如が現実界を為す[Le manque du manque fait le réel] (Lacan, AE573, 17 mai 1976)


ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté.  ](Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.] (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



最近の若いのはあまり知らないのかもしれないけどな


いまどき、男女が本気になって交わるというのも、アナーキーかもしれませんよ。(古井由吉『人生の色気』「断食芸人」の心地で生きる) 


アナーキーってのは究極的にはアナの享楽、《ヴァギナの享楽[jouissance vaginale]》(Lacan, S10, 19  Décembre  1962)のことさ


宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナデンタータという北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。〔・・・〕


社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。〔・・・〕


自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カーミル・パーリアcamille paglia「性のペルソナ Sexual Personae1990年)