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2021年7月16日金曜日

スポーツの場でのアフロディーテ


愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった[L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.](ラカン, S9, 21 Février 1962)





偶然行き当たったのだが、このリオ・オープン2014年でのナダルの横に立ついわゆるボールガールは、ネット情報では、1988年生まれのブラジリアン、 "Fernanda Maia Carelli“という方だそうだが、たいていの男はこういった女性にーーとくにこういった軀にーー惚れないですますわけにはいかないじゃないかな、それは既に恋人がいようとも。



今、生命の血の滾る乙女が一人、焔に向かって身を起こす、

陽の光を映す胸の二つの膨らみの金(きん)が深い感謝に輝いて。


Feu vers qui se soulève une vierge de sang 

Sous les espèces d’or d’un sein reconnaissant !


ーーヴァレリー、若きパルク



18歳のときにとってもイカれた『ゴッドファーザーⅡ』のアポロニア、シモネッタ・ステファネッリSimonetta Stefanelliを思い出しちまったよ。






フットボールの美女レフリーで名高いフェルナンダ・コロンボ Fernanda Colombo もブラジル出身なんだな




彼女のほうは、4年ほど前に衝撃を受けたアルゼンチン生まれのベルナルダ・フィンクの『夜咲きスミレ』の最後の1分の伴奏とともに鑑賞すべき美女だな

➡︎ Bernarda Fink, Nachtviolen


ああ、ナンテイインダろ。


朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、あなたの出現がかれをかほどまでに激動さしたと、あなたはほんとうに信ずるのか[Meinst du wirklich, ihn hätte dein leichter Auftritt also erschüttert, du, die wandelt wie Frühwind? ](リルケ、ドゥイノエレギー、第三歌)



…………


もう一度冒頭の画像に戻るが、ナダルとボールガールの様子は実に古典的事例の場面だなあ。あまりにもピッタンコで、むしろそっちのほうに感心したよ。



男の幸福は「われは欲する」である。女の幸福は「かれは欲する」ということである。[Das Glück des Mannes heisst: ich will. Das Glück des Weibes heisst: er will. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」)


男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。同じ状況の女は、異なった態度をとる。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness1998年)


ファルスになるためにーーつまり大他者の欲望の対象になるためにーー、女は女性性の本質的部分を拒否する。つまり女性性のすべての属性を拒絶して仮装のなかに隠す。女は、彼女でないもののために、愛されると同時に欲望されることを期待する。C'est pour être le phallus c'est à dire le signifiant du désir de l'Autre que la femme va rejeter une part essentielle de la féminité, nommément tous ses attributs, dans la mascarade. C'est pour ce qu'elle n'est pas qu'elle entend être désirée en même temps qu'aimée. (ラカン 「ファルスの意味作用」E6941958年)


この1958年のテキストは、女性性に関するラカンのポジションを教えてくれる。このテキストは、今ではセミネール20「アンコール」に比べ、しばしば見逃されている。だがラカン のその後の展開の胚芽的起源を含んでいる。このテキストが示しているのはーー、

①女はファルスではない。だが女は、欲望のシニフィアン、大他者にとってのファルスになることを欲望することである。ここに現れているのは、女の女自身に対する他者性の命題である。女は自らを大他者に欲望のシニフィアンに転化させる。というのは大他者はファルスを欲望するから。〔・・・〕


②仮装は存在の原欠如の上に構築されている。女性の仮装によって拒絶される女性性の本質的部分は何か。最初の接近法としてこう言おう。拒絶される女性性の本質部分は女性器である。女は女性器(肉体的裂目)をヴェールする[it is the sexual organ. She veils the sexual organ (the anatomical gap)]。そして身体の他の部分を見せびらかす。(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010


女性が自分を見せびらかし 、自分を欲望の対象 として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルスと同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス、他者の欲望のシニフィアン として位置づける。Tout ce qui dans la fonction féminine… pour autant qu'elle s'exhibe et  se propose comme objet du désir …l'identifie d'une façon latente et secrète au ϕαλλός, c'est-à-dire en somme, situe son être de sujet comme ϕαλλός désiré, comme signifiant du désir de l'autre, 


こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装[la mascarade féminine]と呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性ともっとも密接に結びついている。

le situe, cet être, au-delà de ce qu'on peut appeler la mascarade féminine puisqu'en fin de compte tout ce  qu'elle montre de sa féminité est précisément lié  à cette identification profonde, à un signifiant  qui est le plus lié à sa féminité. (ラカン, S5, 23 Avril 1958