やあきみ、エリック・エリクソンのたぐいってのは読んだことないから、何も言いたくないがね、でもむかしは現代思想界隈でバカにするのが流行ったんだよ。
数年前にもニブヤンがこうツイートしていたけどさ。
詰まらぬ私事。「アイデンティティ」という語の濫用(?)はエリック・エリクソンを引用した江藤淳さんあたりからか、或いは戦後の通俗アメリカン心理学の流布からか、未だに学生さんたちが生真面目な(?)便利さでこの語を使うのに出会うと溜め息が出てしまう。(丹生谷貴志ツイート) |
21世紀ってのは知的退行がおこった世紀なんだよ、かつては「常識」だったことがそれなりの大学の学生でさえ無知なんだから。若いののツイートなんかみてるとホントに溜め息が出ることしきりだよ。 |
現実をいかにして回避しつつ生をなし崩しに消費してゆくかという退屈きわまりない自分自身の物語がくり返されている〔・・・〕。この罠という善意の虚構装置が、時代によって、またその無意識の捏造者が属する文化形態によっていくつもの異なった名前を持っているという点も、また衆知の事実であろう。もう昔の話なので憶えている人もいまいあの「アイデンティティ」の危機だの確立だのといった神話も、そんな名前の一つであったはずだ。個人の生活史の上でも集団の歴史という側面においても、その危機的状況の克服の契機として「アイデンティティ」の概念が重要な役割を演ずるとまことしやかに語られていた時代はさいわい遠い昔のこととなってしまったが、しかしそれに類する物語は尽きることなく生産され続け、されとはまるで違った顔をした、たとえば「モラトリアム」などと称する神話としていまもしたたかに生きているのかもしれない。物語は、間違いなく勝利するのだ。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収、1979年) |
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日本の文学史家は、花袋や藤村がロマン派から自然主義派へと移行していったというようなことを平然といったりするが、それはロマン主義というものを浅薄にしか理解しないことである。藤村や花袋が評情詩から散文(小説)へ移行したことは、彼らとって「成熟」を意味した。が、そのような「成熟」こそ、ロマン主義が強いる不可避的なコースなのであり、ロマン主義の一環なのである。自然主義は反「自己意識」的であるが、ジオフリー・ハートマンがいうように、「ロマン主義と反自己意識」は不可分離であるだけでなく、われわれは成熟という「問題」に現在も閉じこめられている。小林秀雄にせよ、『最後の親鷲』の吉本隆明にせよ、つぎのようなロマン主義の圏内にある。《知を通しての無知ーー第二の無知への回帰という考えは、ドイツ・ロマン派のあいだではありふれている》(ハートマン「フォルマリズムをこえて」)。 |
「成熟」という問題はまた、中村光夫の「作家の青春」や江藤淳の「成熟と喪失」以来べつの角度から論じられている。それは前者のような逆説性をもたないために、最も普及している。今日では、エリック・エリクソンのアイデンティティやモラトリアムという概念が応用されているが、それはもはや"批評"の名に値しない。なぜなら、それは「成熟」という問題そのものの歴史性をみることなしに、あたかもそれが人間にとって固有の問題であるかのように考えているからだ。(柄谷行人「児童の発見」『日本近代文学の起源』所収、1980年) |
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柄谷)ロマン派が保守化すると、現実の秩序が保たれるためには感情を、あるいは快感原則を抑制しなければならない、というようなことをいいはじめる。「成熟と喪失」とかね(笑)。 浅田)子供っぽいロマン派の夢を捨てて、「現実」に「責任」のとれる「大人」になろうという、最近また流行ってる擬似ヘーゲル主義もそうでしょそれこそがいちばん子供っぽいロマン派の考えなんだけど。 柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。(「「悪い年」を超えて」坂本龍一・浅田彰・柄谷行人座談会『批評空間』1996 Ⅱ-9) |
精神科医だとここまでは言わないけどね、通俗心理学のたぐいだってときにはいいこと言ってるんだろうからな、なんらかの形で役に立つのかもしれないよ。 |
見通しの乏しい状況において一つの有効な通俗道徳たりうる。(中井久夫『分裂病と人類』1983年) |